差し出されたら従順を飲み込んで

かるい足音を響かせて、鈴は尾形の病室へと向かっていた。ふわりと漏れそうなあくびをかみ殺して、ぴたりと戸の前で立ち止まる。ことことと戸を叩くと、返事も待たずにドアノブをひねった。

「…鈴か」

上半身を起こしていた尾形は、入口をちらりと見遣り一言、そう零す。落胆も歓喜もなにひとつ混じらない、平坦な声だった。自分から来いと呼んでおいて歓迎の色を微塵も示さない尾形に、鈴は文句のひとつも言わない。黙ったまま病室に入り、ベッド脇の椅子に腰掛けじっと尾形を見つめた。

「…何だ」
「……怪我、」
「あ?」

鬱陶しいと言いたげに鈴の視線に応えた尾形に、鈴はおもむろに口を開く。その視線が、尾形の縫われた顎の傷を撫でる。

「…話すの、痛くない?」

つい先日、ようやく顎の固定器具が外れた尾形。食事も固形のものへと徐々に戻されつつあるが、それでも傷跡は未だに痛々しいと、鈴は思う。

「お前、なんで最近来ないんだ」

鈴の心配など全く気にしていないふうに、尾形は低い声で言う。その顔が明らかな不服を示していて、鈴ははたはたと瞬きを繰り返した。

「…尾形さん、元気になったから」

瀕死の重傷を負ってきたときは気が気じゃなくて食事も受け付けなかった鈴。じっと見ていなければ、見ていてなお、死んでしまうのではと不安で仕方なかった。けれどもう尾形は皮肉すら言えるほどに回復した。

「なんだそれ。なら俺は目が覚めん方が良かったのか?」

ははっと乾いた笑いを零す尾形に首を振って、鈴は少しだけ眉尻を下げる。

「…ああ、ならこうしよう。お前が来ないなら、俺は飯を食わん」
「……ちゃんと、食べて」
「俺に飯を食わせたいなら、お前がここに来ればいいだけの話だ」

きゅっと眉を八の字にしたまま、「…わかった」と小さく頷いた鈴に、尾形は満足そうに口角を上げた。



とたとたと軽い足音を立てて鈴は尾形の病室へと向かっていた。尾形が我儘を言った日から数日、鈴は毎日欠かさず尾形の病室へ通っている。途中、行き会った鶴見に「今日も見舞いかね?」と問われた。

「…私が行かないと、ご飯、食べないって」
「随分と気に入られたものだな」

はっはっは、と豪快に笑った鶴見を無言で見上げる鈴は何の反応も示さない。これが鈴と鶴見の間では常である。
ひとしきり面白そうに笑った鶴見は、にぃと笑みを浮かべて鈴の耳元に顔を近づけた。

「…お前の使命を忘れるなよ、鈴。尾形を常に監視し、懐柔し、懐いたふりをして隙をうかがえ。私の指示で、いつでも殺せるようにな」

鶴見の言葉に鈴は無言のまま、眉ひとつ動かさない。それを是と受け取ったらしい鶴見は、鈴の頭にとんとんと手を置いて立ち去った。

「…何かあったのか」

病室へ入ってきた鈴を見て、尾形は開口一番にそう問う。鈴の表情が暗く、思い詰めているように見えたのだ。

「……あなたをいつでも殺せるようにしておけと、あの人が。…私、あなたを殺すなんて、いや」

誰にも聞かれぬようにと尾形の傍まで寄って、小さな声でぽそぽそと話す鈴は、ひどく苦しそうな顔をした。
そんな鈴の横顔を眺めながら、"殺すのがいやだ"ということは、この少女は自分を殺せるだけの力量を持っているということなのか、と尾形は考える。
尾形は、鈴が暗殺を生業とする名家の出であることは知っているが、実際に彼女がどれほどの腕前なのかまでは見たことがなかった。おそらく鶴見は知っているのだろう。知っていて、鈴を引き取ったのだ。都合のいい駒として。その鶴見が任せたのだから、やはり鈴の思い込みではなく彼女は本当に尾形を殺せるだけの腕はあるのだ。その気になれば。

「…なら、逃げればいい。あの人からも、実家からも」
「え、」
「お前、親に売られたんだろう? 自分を見捨てた家に立てる義理がどこにある」
「……」

尾形の言うことは正しい。
どういう取引があったのか、鈴本人すら正確なことはわからないが、自分が鶴見の元へ行く代わりに家に大金が入ったことだけは知っていた。

「…逃げたいか?」
「……わからない」

もし尾形を殺すようなことになったら、自刃した方がマシだとは思う。けれど、まだそこまで差し迫ってはいない今の状況で、鈴に決断などできない。

「…もし、俺がここを出ていくと言ったら、ついてくる気はあるか?」
「うん」

鈴が考える素振りなど微塵も見せずに頷くと、尾形は「ははッ」と笑いを漏らした。そのままニヤリと笑い「即答かよ」と嘲るような口調で言うが、そのわりに何故か嬉しそうな目をしていると鈴は思う。

「…いい子だなあ、鈴。家も飼い主も捨てて、裏切り者と仲良く脱走か。傑作だな」

するりと、尾形の厚い手のひらが鈴の頭を撫でた。そのまま降りてきた手が、指の背で頬を上下に行き来するのを鈴は大人しく受け入れる。

「……明日の昼間、外套を羽織ってここへ来い。大袈裟な荷物は持つなよ。いいな?」

囁くように耳へと注がれた声に頷いて、鈴は自分を映す尾形の真っ黒な目を見つめかえした。


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