サウダージの亡骸

鈴は笑わない。
笑わなく、なった。
それがいつからなのか、明確にわかるのは尾形だけである。
あの日からだ。尾形が鈴を庇い強姦された、あの日。あの事件以降、鈴はその顔から表情というものを一切消してしまった。
もともと表情豊かな方ではなかったが、それでも時おり尾形の前では陽だまりのような笑みを見せたのだ。
尾形は、その笑みが気に入っていた。だから庇った。尾形にしてみればやり慣れているその行為には特別何らかの意味があるわけでもなく、ただの性処理でしかないのだが、鈴にいくらそう言っても伝わらなかった。
尾形が、鈴の微笑みを守ったつもりでほんとうは何も守れていないと気づいたのは、その出来事から少し経ってからだった。以前のように会話をしても鈴は眉一つ動かさず、ふふと声をあげて笑うこともしない。ただじっと尾形を見つめる双眸はあの日と同じように暗くどんよりとしていて、まるで人形を相手に話しているようだと思った。「元気がないな」と言ってみても「そうでしょうか」と首をかしげられ、「鶴見中尉に何も言われんのか」と聞けば「いえ何も」と返される。
あとで知ったことだが、鈴が微笑みを見せていたのは尾形に対してだけだったらしい。鶴見にとって人形のように表情がない鈴は普通なのかと思うとそれはそれで気味が悪いが、とにかく尾形以外の誰も、鈴の変化に気づく者はいなかった。



「鈴、といったか? 私はアシリパだ」

差し出された手と、真っ直ぐな青い目とを交互に見比べ、少し迷う素振りをしたあとで鈴はちょこんと小さな手にその手を重ねる。握手というよりは、犬猫の「お手」のようだった。
夕張の炭鉱で尾形とともに爆破に巻き込まれ気を失っていた鈴は江渡貝邸の別室に寝かされていた。その間に階下では土方たちと杉元一行の一悶着があったのだが、鈴はもちろん知らない。階下からする物音で目を覚ました鈴が部屋を出ようとしたところで、食事の支度ができたことを知らせようとアシリパが部屋へ入ってきた。
自分より少し背の低い少女の格好を見て、すぐにアイヌだと気づいた。しかし自分にアイヌの知り合いはいない。突然見知らぬアイヌ人が部屋に入ってきただけでも驚いたのに、その少女が自分の名前を口にしたのだから、鈴は面食らってしまった。

「行こう。家永が鍋を作ってくれた」

「お手」のように乗せた手を引かれ階下に降りると独特なにおいがした。
アシリパの続いて部屋に足を踏み入れる鈴に、いちばんに気づいたのは杉元だった。

「あ、お嬢ちゃん、もう大丈夫?」

杉本のほかにも何人か知らない面々があり、おろおろと視線をさまよわせた鈴は視界に尾形の姿を認めて一目散にそばへ寄る。

「……気分は?」
「へいき」

自分の横の椅子を引いてやりながら問いかけた尾形に短く答え、大人しく隣の席に座った。
交わされる会話のどれにも全く興味を示さず黙々と食事を進めていた鈴だったが、杉元が尾形に疑いの眼差しを向けたことでわずかにそちらへ気がとられる。それでも、会話に耳を傾ける程度で、特に思うことはなかった。
尾形が「殺されかけた」という言葉を発するまでは。

「尾形さん…今の、どういうこと」
「ん?…ああ、お前は会うのは初めてだったな。あいつが"不死身の杉元"だ」
「……そう、」

にやりと笑みを浮かべたまま、尾形が顎の傷を撫でながらそう告げると、低い声で鈴は呟き素早く懐に手を入れる。
──刹那、空中を光るものが切り裂き、ちょうど杉元とキロランケの顔の間を横切った。一拍遅れて背後を振り向いた杉元の頬に、赤い線が浮かぶ。壁には、短刀がひとつ突き刺さっていた。

「死ね」

先ほどまでなんの表情もないまま食事をしていた少女が突然鋭い殺気を向けてきたことに、杉元や他の者の反応が遅れる。さらに、相手がアシリパとそう変わらない年頃の少女であることに、戸惑いが生じていた。

「…鈴、やめろ」
「でも、」
「やめろ」

唯一、呆気にとられることもなく眺めていた尾形は、にやりとした笑みのまま、さらに短刀を投げようとする鈴に静止をかけた。
鈴は軍人ではない。ゆえに、軍人の鶴見に飼われていたとはいえ、有名な"不死身の杉元"の背格好や特徴も知らなかった。ただ、瀕死の重傷を負って帰ってきた尾形が"ふじみ"という言葉を伝えたのは知っている。
さっき声をかけられたとき、あの男が"不死身の杉元"と知っていたなら喉元を掻っ切ってやったのに、と鈴は思う。
それでも尾形がやめろと言うのなら、従うよりほかになかった。
壁に刺さった短刀を引き抜き、凍てつく視線を杉元に向けてから、鈴は食事を再開する。
少しの沈黙の後、再び交わされる会話に鈴が興味を示すことはなかった。


* * *

サウダージ…郷愁、憧憬、思慕、切なさ

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