さよならの残響


…佐一くんが私からなにを奪ったというのだろう。佐一くんは、両親を亡くして親戚の家をたらい回しにされていた私を引き取ってくれた。私の両親と知り合いだったと言っていたけれど、佐一くんは嘘をつくのが下手だから、それが嘘だとすぐにわかった。ならどうして私を引き取ったのか、ほんとうのことは知らない。
でも、なんの血縁でもない私を本当の家族のように扱ってくれた。佐一くんは兄のような人なのだ。
その佐一くんが、私になにをしたと…?
……でも。
明日子ちゃんも言っていた。「今度は鈴から自由を奪うのか」と。あのときは喧嘩を止めることを優先したから聞けなかったけれど、気になってはいた。

「……気になるか」

ぼう、と考え込む私を、尾形さんが黒い目でじぃと見つめる。「知りたいなら教えてやる」となんの温度もない声で言って、尾形さんはコーヒーに口をつけた。それ以上はなにも言わずに黙っている尾形さんは、私の意思で決めさせたいのだろう。
…それを聞けば、ほかの疑問も解消だれるだろうか。
たとえば、会ったこともなかった尾形さんの声が夢に出てきた理由とか。

「……私、」

口を開くと、尾形さんは黙ったまま少しだけ顔を上げて私の口元を見つめた。

「私、尾形さんに初めて会ったとき、初めて会ったはずなのに、ずっとこの人を待ってたんだって思いました」

尾形さんの目をまっすぐ見て言うと、黒い目は大きく見開いた。驚いているのが、珍しくありありと表に出ている。

「…佐一くんのことを知ったら、どうして尾形さんにそう思ったのかもわかりますか」
「…知りたいなら、教えてやる」

すっと表情を戻して、少しの間目を伏せてから、尾形さんはさっきと同じ言葉を口にした。
少しだけ、目に憂いが映った。ほんの一瞬。今まで一度も──まだ会ってから2週間しか経ってないけれど──見たことのない目だった。

「……ここでする話じゃない。少し早いが家に行くか」

席を立ってお店を出た尾形さんの目に、もう憂いは映っていなかった。



尾形さんの住むマンションはとても広かった。
きれいな外観にオートロックのエントランス、おしゃれなロビーを見たあたりでなんとなく予想はついていたけれど、3LDKの部屋に入ると驚いた。
尾形さん曰く、生前贈与されたものらしい。しかもこの一部屋だけではなく、マンションそのものが尾形さんの持ち物だというからさらに驚く。一体どんな家柄なのかと思ったが、それを話す尾形さんの表情はあまり明るくなかったのでなにも言わずにおいた。もっとも、明るい表情の尾形さんは見たことがないし想像も出来ないけれど。

「鈴、」

革張りのソファに腰掛けた尾形さんに呼ばれる。
大人しく側へ寄ると、腰を抱き込まれてバランスを崩し、尾形さんの膝の上に乗せられた。

「お、おります」
「いやだ」
「重くないですか」
「まったく」

回された腕が私を離してくれる気配はない。
顔が首元に寄せられ、首筋の匂いを嗅がれているのだと気づくと、ぴしりと身体が強ばった。

「あ、あの、」
「……お前、前世とか信じるか」
「…はい?」
「お前が見ていた夢は前世の記憶で、俺が前世からずっとお前を好きだったと言ったら、信じるか」
「ええと……なにかの宗教に入っていたりします?」

抱きしめられ、首筋の匂いを嗅がれ、恥ずかしいどうしようと混乱していた頭が、一気に冷静になった。なんというか、お花畑から宇宙空間へ放り出されたような気分だ。
前世がどうとかで口説こうとするような人には、どう考えても思えない。けれど、尾形さんの目はいつもと同じ無表情な黒のまま、じっと私を見つめていた。

「……もしそれが本当だったとして、佐一くんとなんの関係があるんですか?」

私が聞くと尾形さんの表情が翳った。
まただ、と思った。また、黒い目に憂いの色が見えている。

「……杉元佐一は、前世のお前を殺した男だ」

低く、静かに、ゆっくりと尾形さんが言う。
黒い目の奥で小さく憎悪の炎が揺れていた。
…耳奥で、銃声が鳴り響いた気がした。