静寂にひそむ


すっかり慣れた携帯を操作して、通話ボタンを押す。
呼び出し音が数回鳴って、ぷつりと途切れた。

「……」
『……もしもし?』
「……」
『……どうした、鈴』

なにも言えないまま、浅い呼吸だけを繰り返す午前4時。
こんな時間に電話をかけた挙句、無言であるにもかかわらず、尾形さんの声はひどく優しかった。

「……ごめ、なさ……こんな時間、に、」
『いや、構わん。…大丈夫か』

電話のむこうの声は低く掠れていた。
寝ていたのだろう。当たり前だ。相手は社会人で、今は木曜の午前4時、週末まであと2日はある。

『……早くこっちにこい、鈴。電話越しじゃ、抱きしめてやることもできん』

ゆっくりとした、吐息にも似たため息をついて、尾形さんが言う。
非常識なのも、迷惑になるのもわかっていた。それでも、尾形さんの声を聞きたいという、ただそれだけの願望に理性は勝てなかった。
次の休みはどこに行く、と電話のむこうで声がする。ぽつりぽつりと話しているうちに、気づくと眠っていた。



あの夢を見たあとに、もう一度眠ることができた。それはとても驚くべきことだった。だって、今まで一度も、そんなことはなかったのだから。
朝、部屋の隅で寝ていた私を起こしながら、佐一くんもとても驚いていた。明日子ちゃんはこのことを知ると、驚きながらもとても嬉しそうにした。

「…昨日、電話したの。夜、夢を見たあとで、尾形さんに…」

目を輝かせる明日子ちゃんに気圧されながら、昨夜のことを話す。
いつものように夢で起きてしまった私は、「うなされて起きたら電話しろ」と渡された携帯端末を、初めてその本来の目的に使った。
尾形さんと初めて会ってから2週間が経とうとしているが、今まで深夜にかけたことはなかった。
ただ、昨日は常識なんてどうでもよくなるくらいに、寂しかった。寂しくて、悲しくて、どうしようもなく尾形さんに会いたかった。会えないならせめて、声を聞きたいと思った。

「……あのね、佐一くん、」
「うん?」
「私、尾形さんと一緒に住もうと思う」

思ったよりも抵抗なく私の口から出ていった言葉に、佐一くんの表情がぴしりと固まった。


私の申し出に断固反対の姿勢をとった佐一くんと対立したのは、私よりも明日子ちゃんのほうだった。「絶対だめだよ、あんな奴!」と語気を強める佐一くんに、「今度は鈴から自由を奪うのか杉元!」と明日子ちゃんが食ってかかった。ぐ、と押し黙ったものの譲る気はない様子の佐一くんに、「鈴が望むなら尾形のところへ帰してやるべきだ!」と明日子ちゃんは言葉を重ねた。
すっかり険悪になってしまった空気に耐えられず、私は「すぐに出て行くわけじゃないし、今は急ごう」と朝の準備を促すことでその場をごまかした。
……2人を仲違いさせてしまった。私のせいで。2人はあんなに仲がいいのに。
あれから2日経っても明日子ちゃんはぷりぷりと怒っていて、佐一くんも普段より口数がうんと少ない。結果的に家の空気が冷えきっていた。
土曜日。
尾形さんと2人で出かけている最中にそんなことを零す私を、黒い目はじっと見つめた。

「元気がないとは思っていたが、そんなことか」
「そんなことって…。2人は、すごく仲がいいんです。なのに、私のせいで2人ともいつもみたいに笑わなくなっちゃって…」

こともなげに言う尾形さんに項垂れる。明日子ちゃんはともかく、仲の悪い佐一くんにする心配などないといったふうだ。興味がなさそうに「ふぅん」と気のない返事をしてコーヒーを啜っている。
相談する相手を間違えたと思う。佐一くんのようにあからさまに態度に出さないだけで、尾形さんも十分に佐一くんが嫌いなのだ。
…ああ、どうしよう。
尾形さんの声を聞いた夜は眠れたけれど、ほぼ毎日の見る夢で起きるたびに電話をするのは気が引けて、結局のところ私は寝不足なままだった。そんな頭で名案など浮かぶはずもなく、どうしようどうしようとそればかりがぐるぐる巡っている。

「……俺からすれば、杉元にお前を引き留める資格もクソもないと思うがな」

はあ、とため息をついて、尾形さんは片手で前髪をかきあげる。
その仕草が密かに好きで、思わず見とれていた私は、尾形さんが次に発する言葉を危うく聞き逃すところだった。

「…何せ杉元は昔、お前から全てを奪った男だ」
「……え?」

自分の耳を疑う私に、尾形さんはにやりと笑った。
思考を放棄しかけた頭の片隅で、チェシャ猫みたいだと、変なことを考えた。