きみの名も忘れて


「…目立ちすぎたな」

ちらちらとこちらへ向けられる視線から、気まずそうに顔を逸らして髪をかき上げた男の人──尾形さんが、「場所を変えるぞ」と言う。おかげでケーキは食べそこねた。

「いや、お前のせいじゃん」

ごもっともなことを言った佐一くんをぎろりと睨んだ尾形さんは、そのまま無視して私の手を引く。すたすたと歩みを進める足に迷いはみられない。尾形さんの中で行き先は決まっているようだ。

「おい、どこ行くんだよ」
「…帰っていいぞ、杉元。お前に用はない」

腕を掴んで引き止めた佐一くんを、尾形さんはふんと鼻で笑う。
会ってまだ十数分しか経っていないはずなのに、すでにふたりの空気は険悪だった。どちらかというと、普段の優しい顔しか知らないぶん、佐一くんのほうが怖い。尾形さんは棘のある言い方をするものの、表情はそれほど変わらなかった。
噛みつきそうな勢いで尾形さんに突っかかる佐一くんと、にやにやと挑発的な笑みを浮かべる尾形さん。なにかに似ていると思った。
…あ、犬をからかう猫だ。
塀の上から犬にちょっかいを出して遊ぶ猫。尾形さんはそれに似ている。佐一くんは普段はすごく優しいからたぶん、尾形さんにかなり嫌なことをされた経験でもあるのだ、きっと。



「……元気だったか」

さっきとは違うカフェに着いてからもしばらく言い合いを続けていたふたり。
私はそれをただ見ているだけだったので、自分にかけられた言葉にすぐに反応することができなかった。
横を見ると、尾形さんが黒い目でじっと私を見つめていた。声も、佐一くんに向けていたような刺々しさがない。

「ええと……元気、です」
「鈴さん? 元気じゃないでしょ? なにもなかったらこんな奴にわざわざ会いに来たりしないからね」

愛想笑いをするとすぐさま佐一くんが口を挟む。
「こんな奴」の部分をかなり強調したことでまた喧嘩が始まるのではと思ったけれど、そんなことはなかった。
佐一くんの「元気じゃない」という単語に険しい顔をした尾形さんが「どういうことだ」と声を低くする。

「大したことじゃ、ないです。…ちょっと、眠れないだけで、」

蛇に睨まれた蛙のように、身体を強張らせながら言う。そろりと視線を外したけれど、黒い目はじっとこちらを見つめたままなのがわかった。
黙ったままでいる私に、話す気がないと判断したらしい佐一くんが私の夢のことを説明した。意外にも佐一くんの話を黙って聞いていた尾形さんは、全て聞き終えると少し考えこむように視線を宙に投げ、やがて再び私を見つめた。

「…覚えてないのか。俺のことも、あの時代のことも」

表情筋はぴくりとも動いていないのに、なぜか彼の黒い目がひどく悲しそうに見えた。
あの時代、とはなんのことだろう。
どうしてこの人はこんなに悲しげなのだろう。
私は、なにを忘れているのだろう。
あの夢は、ただの夢のはずなのに。
……そこまで考えて、最後の一文を自分で否定した。
何度も聞いたあの声が、夢の中の「迎えに行く」という約束を果たすかのように、「迎えに来た」と現実の世界で言ったのだ。
目の前の、この人が。
もう、ただの夢とは言えなくなったのだ。
この人をずっと待っていたのだと、思ってしまった瞬間に。