約束のエリーゼ


血が、身体から失われていく。
じわじわとすこしずつ、けれど確実に。
命が、ながれていく。
私はもうすぐ死ぬのだと、わかった。
こわくはない。
でも、とても悲しい。
震える指先で、私はなにか──あるいはどこか──に手を伸ばした。

「……待ってる。ずっと」

視界は暗く、伸ばされた指の先になにがあるのかは見えない。けれど、私の言葉に応える声があった。

「……あぁ。迎えに行く。…約束だ」

声は低く、幽かに震えていた。
私は安心して、伸ばした手を下ろす。
もうなにも、感じなかった。



「……っ」

また、同じ夢をみた。
午前3時。あと3時間は余裕で寝ていられる。寝ていられる、はずなのだ、ほんとうは。でももう眠れない。いつものことだ。
ぼろぼろと溢れる涙をぬぐって、静かに布団を抜けだした。同じ部屋で眠る明日子ちゃんを起こさないように、そっと部屋から出る。
自分がなぜこんなふうに泣いているのかはわからない。
ただ、悲しくて、苦しくて、さみしい。
佐一くんの眠る居間の隅にうずくまったまま、朝を待った。



「鈴、また夢をみたのか? 隈がひどいぞ」

明日子ちゃんが、私の顔を見て第一声に発したのはそれだった。私がかけた、「おはよう」の返事ではなく。

「明日子さん、もっと言ってやってよ。鈴さんてば俺のことも起こさないで、ひとりでずーっと泣いてたんだよ?」
「なに!?」
「だ、だって佐一くんお仕事あるのに悪いし…」

顔を洗って戻ってきた佐一くんの言葉で、心配そうだった明日子ちゃんの表情が険しくなる。佐一くんも不満そうだった。
ふたりにじとりと睨まれて、私は愛想笑いを浮かべながら逃げだす。ただの夢のはずなのに、このことになるとふたりはやたらと心配するのだ。

「……鈴さん、次の日曜って、なにか予定ある?」
「え。…ない、と、思う…。なんで?」

朝ご飯を食べながら、佐一くんが急に真剣な顔で言う。
日曜だから学校はないし、部活も休みだし、友達と出かける約束もしてないはず…と、頭の中で確認しながら答えた。
「会わせたい奴がいるんだ」佐一くんが言う。すごく、嫌そうな顔で。
そんな顔をするくらい嫌いな人と私を会わせるの? と思うくらい、すごい顔をしている。

「…俺はそいつのこと嫌いだけど、鈴さんには絶対に優しいから、大丈夫」

渋々、という表現がぴったりな顔の佐一くんを、明日子ちゃんは面白そうに見ていた。ロシア人の血が流れているという彼女の青い目が、にやにやと笑ったまま私を捉える。

「杉元は尾形のことが嫌いだから、鈴を会わせるのが嫌なんだ」

にやにやする明日子ちゃんに、佐一くんがむっとする。
明日子ちゃんもその人のことを知っているらしい。
私は首を傾げたまま、ふんとそっぽを向く佐一くんとにやにや笑う明日子ちゃんを見ていた。



日曜日。なぜか楽しそうに私の服を選ぶ明日子ちゃんは、最終的に私のいちばんお気に入りのワンピースを差しだした。彼女はいつもエネルギーに満ち溢れているように感じるが、今日は格別に目を輝かせていた。
「やっぱり鈴はこれがいちばん似合うからな!」そう言って笑う。
その後も嬉々として私の髪を弄る明日子ちゃんにされるがまま、かるくお化粧までさせられ、佐一くんと一緒に家を出た。
張り切って準備を手伝ってくれた明日子ちゃんは、午後から部活があって一緒には来られないらしい。



「鈴さん、なんかすごく可愛いんだけどー?」
「明日子ちゃんが、なんか張り切ってて…」

女子高生のような口調で、でもどこか不服そうに、地下鉄の中で改めて私の格好を見た佐一くんがほめてくれる。
そういえば、これから会う人は佐一くんと仲が悪いんだっけ。
なぜそんな人と私を会わせようと思ったのか、なぜこのタイミングなのか、私はなにも知らないままでいる。
今朝もまたあの夢によって早朝に起きてしまった私は、あくびを噛みしめながら目的地に着くのを待った。



待ち合わせ場所はおしゃれなカフェだった。
テラス席にも何組か人の姿があり、若い男女のカップルや、本を読みながらコーヒーをすする男の人、三人組のご婦人たちなど、日曜の昼間にふさわしいような光景だった。
…あ、あのケーキ美味しそう。
相手の顔すら知らない私は、佐一くんの隣でそんなことを思っていた。

「──鈴!」
「?」

突然大きな声で名前を呼ばれ、辺りを見回す。
声の出どころは、カフェのテラス席の椅子から立ち上がり私を凝視する男の人だった。さっき本を読んでいた人。なんというか、大人な雰囲気を纏った人だな、くらいの印象しかない。その人が、これでもかというくらい目を見開いてこっちを見ている。

「あ、尾形」

ぽつりと呟くように言って、あの男の人を見た佐一くんが顔をしかめる。どうやら待ち合わせの相手はあの人だったらしい。
私が佐一くんの顔を見てそう判断している間にずんずんとこちらへ歩いてきたその人は、なんの迷いもなく私の目の前に立ち、その腕の中に私を閉じ込めた。

「……迎えにきた」

ぎょっとして身体を強張らせる私の耳元で、男の人がささやく。
それは、何度も見たあの夢で、「迎えに行く」と言った、あの声だった。
…ああ、私はずっとこの人を待っていたのだ。
なにひとつわからないまま、漠然とそう思った。