東京喰種 | ナノ
※わがままなんて言わないから。 の続きです


普通の一日を、過ごすはずだった。
急にピエロとしての仕事をしなければいけなくなって、紗薇のことが気がかりなまま、ぼくはロマたちと合流した。
早く片付けて帰ろう。そう思っていたのに、思い通りにはいかなくて。
ハトに遭遇してしまい仕留め損ねた挙句、跡を付けられてまっすぐ家に帰れなくなってしまった。
しかも相手は複数人。
階級が上の方だったのか、簡単に死んではくれなくて、予想以上に時間がかかってしまった。
あの子はちゃんと食事をしているだろうか。
帰りの遅いぼくを、怒るだろうか。
できれば、「心配した」と言って欲しい。
彼女の口から、ぼくを必要とする意の言葉が欲しい。
帰ったら、ぼくの気が済むまで甘やかそう。
ぼくの、かわいい紗薇…。

「ただいま紗薇。ごめんね、急に――………紗薇…?」

部屋の中は、血の匂いが漂っていた。
いつもなら玄関で待っているはずの紗薇の姿がない。
物音一つせず、何の気配も感じられない…。

「紗薇…?」

ぼくは、血の匂いを辿って寝室の扉の前に来た。
呼んでも返事はない。
…嫌な予感、というのはこういうのを言うのだろうか…。
そっと寝室の扉を開けると、血の匂いは一段と濃くなった。その匂いは、ベッドの上の紗薇から発せられている。

「!」

慌てて布団をめくると、黒いシーツは分かりにくいけど、純白のはずの彼女のベビードールはどす黒い赤で染まっていた。
触れた肌が、冷たい。
足の鎖に異常はない。部屋の鍵もかかったままだった。
…つまり。

「何でこんなことしたの…紗薇…」

彼女を抱える手に力を込める。
まだ微かに息があった。
まだ間に合うかもしれない。
急いで肉を食べさせれば、まだ…。

「……ぅ…っ、」
「飲み込んで、紗薇」

塊のままでは噛むことも出来ないだろうと、肉を小さく千切って彼女の口に押し込む。
小さなうめき声に、生きていることを確認した。
時間をかけてゆっくりと紗薇が肉を飲むのを見届けたあと、ぼくは穴の開いたベビードールを脱がせ、彼女の傷の手当てをする。
案の定というか、紗薇のお腹の傷は彼女自身の赫子によるものだった。
深かったけれど、喰種なら回復できるはずの傷。

「…食事もしてなかったの?」
「………ごめ、なさ……」
「どうしてこんなことしたの」
「……ウタ、さ……帰っ、こない……から、死んじゃ……かも、て…だ、から…」

視点の定まらない目は今にも泣きそうで、小さな手はぼくの手を握ることでその存在を確かめているようだった。

「…うん。ごめんね、もう帰ってきたよ。もうどこにも行かない。ゆっくり休んで、紗薇」

安心したように閉じられた瞼。
伝った涙をそっと拭って、ぼくは寝室を出る。
…ぼくが死んだと思ったから、自分も死のうとした。
紗薇のさっきの言葉は、その解釈で合っているのだろうか。
でも、それって、まるで…。
血のついたシーツや服を片付けて、頭の中の整理がつかないまま、コーヒーを淹れる。
…かたり、と音がして振り向くと紗薇が壁に手を付きながら立っていた。

「寝てなきゃだめだよ、紗薇。立ってるのも辛いでしょ?」
「……でも、」
「いいから、ね?」

有無を言わせず抱き上げると、鎖が音を立てて付いてきた。
紗薇の口から漏れる吐息はまだ荒々しく苦しそうで、ぼくの腕に大人しく抱かれたまま胸を上下させている。

「……ここに、いて…いかない、で………ウタ、さん…」

再びベッドに寝かせると、紗薇がぼくを引き止めた。

「わかった。ここにいる。紗薇が起きるまで、ずっとここにいるから」

ベッドに腰掛けて手を握ると、不満そうな顔をされた。
信用できない、ということなのかもしれない。
試しに紗薇の隣へ寝てみると、今度は嬉しそうに微笑んで擦り寄って来た。
頭を撫でてあげると、すぐにぼくの胸に顔を埋めて眠ってしまった紗薇。

「…おやすみ」

紗薇の言葉の意味を考えるのも、彼女がぼくをどう思っているのか聞くのも、ぼくがいなかった分彼女を甘やかすのも、全部後でいい。
今はただ、この可愛い存在を自分の腕に閉じ込めている、という充足感の中で眠ってしまおう。


     *     *     *


完結しました。



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