東京喰種 | ナノ
「あ、起きた。…おはよう」
「……誰…?」

目の前には、知らない男の人がいた。
右半分が刈り上げられた髪。
顔の至るところにピアス。
首にはタトゥー。
…そして、その目は黒い眼球に紅い虹彩と、異様な色をしている。
けれど、こちらを見る整った顔立ちは、とても優しげだった。

「何も覚えてない?」
「…」

男の問いに、首を傾げる。
すると、男もまた首を傾げて「んー」と唸った。

「…じゃあ、とりあえず自己紹介ね。ぼくはウタっていいます。マスク屋さんしてます。…自分のことは、覚えてる?」

ウタと名乗った人の問いに、今度は緩く首を振る。
彼は、私が寝かされているベッドに腰かけ、仰向けのままの私を上から覗き込んでいた。
…ここは、彼の家なのだろうか。
私は、なぜ何も覚えていないのだろう。

「…大丈夫だよ。何も怖いことは起きない」

私の不安が伝わってしまったのか、ウタさんは柔らかく微笑んだ。
細かなタトゥーの彫られた手に、そっと頭を撫でられる。
黒のパーカーから覗いた腕にも、手と同じように美しい模様が彫られていた。

「順番に説明するね。まず、きみの名前はサラ。きみは一週間前、事故に遭って大怪我をした。傷は割とすぐに治ったんだけどね。頭を強く打ってしまったみたいで、多分サラの記憶が無いのはその所為だよ」

大怪我、という割には傷痕も痛みもない。

「鱗赫でよかったね」

シーツをめくり、繁々と自分の体を見回していた私に、ウタさんはそう言った。

「…りんかく?」
「…あ、喰種だってことも忘れちゃった?」
「グール…?」
「いいよ、大丈夫。色々説明するよ。…もう起きられる?向こうでゆっくり話そう。時間はいっぱいあるからね」


   *   *   *   *   *


喰種とは、人間を食べて生きるものだということ。
ここはウタさんの家で、私はウタさんと一緒に住んでいるのだということ。
そして…ウタさんと私は、恋人なのだということ。

「…ごめんなさい、私…」
「大丈夫だよ。サラが謝ることじゃない。ぼくがサラを好きだから、一緒にいる。それだけ」
「…でも…」

大事な人に自分のことを忘れられてしまうのは、とても辛いことなのでは、と思う。

「そんな顔しないで。ぼくは、サラが起きてくれてすごく安心してる。困ったことがあれば助けるし、ぼくがサラを守るから」

ね?と首を傾げてそう言われてしまうと、何も言えなくなってしまって、私は黙って頷いた。
ウタさんは、嬉しそうに目を細めて頭を撫でてくれた。


   *   *   *   *   *


私は基本、外には出ない。
ウタさんに、外にはたくさんの喰種がいてここは特に治安も悪いので、一人で外に出てはいけないと、言い聞かされているからだ。
でも、今日は違った。
マスクを作るための材料が不足していたようで、出かける準備をしていたウタさんに「サラも行く?」と聞かれ、迷わず差し出された手を取った。

「…宮野…!?」

…事件は、帰り道で起こった。
私は突然、知らない人に声をかけられ引き止められる。

「宮野か!?生きていたんだな!?」
「やっ、」
「…ぼくの彼女に、何か用ですか」

大きな男の人だった。
ウタさんだって私よりずっと大きいのに、その男の人はウタさんよりも大きかった。
強い力で肩を掴まれた私は、振り払うことも出来ずに、ただ恐怖と痛みに顔を歪め首を振る。
ウタさんは静かに、けれど素早く私と男の人の間に割って入り、トゲのある口調で男の人を睨み上げた。

「ナンパするなら、もっと上手くやらないと。彼女、怯えてますよ」
「え、あ……すまない、人違いだ…」

ウタさんに気圧されたのもあるかもしれないけれど、私には去っていく男の人の背中がどこか落胆しているように見えた。
もしかすると本当に人違いだったのかもしれない。
ぼんやりと男の人の背中を見送る私を、ウタさんは放心状態と勘違いしたのか、「怖かった?もう大丈夫だよ」と頭を撫でてくれた。


   *   *   *   *   *


「あの男の人、たぶん白鳩だよ」
「ハト…?」
「前に話したでしょ。喰種を狩る人間のこと」
「うん」

帰ってきて、ウタさんは珍しく険しい顔をしてそう言った。
前にウタさんは、CCGという人間の集団が喰種を殺すのだと教えてくれた。その人たちが、通称“白鳩”。
今日、突然声をかけてきた男の人は、じゃあ私が喰種だと気付いて近寄って来たのだろうか。
そう考えると怖くなり、私の顔が強張ったことに気付いたウタさんは「大丈夫だよ」と言った。

「もしサラが喰種だと思っていたなら、あの時あんな簡単に引いたりしない。あの人はただ単に人違いか、でなければ本当にナンパでもしようとしただけだよ」

白鳩は、喰種と分かるとすぐに殺そうとしてくる。ウタさんがそう言ったとき、私が真っ先に心配したのは他の誰でもなく、目の前の彼だ。

「…気をつけてね、ウタさん。絶対に外でサングラス取っちゃだめだよ」

いつも赫眼なウタさんの目。
急に不安になってそう言った私はとても真面目だったのだけれど、ウタさんはクスリと笑った。

「大丈夫。ぼくはそんなヘマはしないから。ぼくはただ、さっきの男の人は白鳩だから気をつけてねって言いたかっただけ。そんな不安そうな顔をさせるつもりじゃなかったんだ」

ごめんね、と言ったあとにいつものように「大丈夫」と言いながら、頭を撫でてくれるウタさんの手は心地良かった。


   *   *   *   *   *


「で、どうよ?宮野サラ捜査官の様子は」
「今はただの“サラ”だよ、イトリさん」

夜も更けた頃。
楽しそうに話す昔馴染みのマスク屋の彼に、無茶な頼みごとをされたのはもう三ヶ月前になるだろうか。

「ぼくのこと心配してくれたり、仕事手伝ってくれたりして、すごく可愛いよ。この間一緒に出掛けて、彼女のことを知っている白鳩に会った時はちょっとびっくりしたけど」

気分はすっかり恋人同士なのだろう。
彼女のことを話すウーさんの目には、愉快さと云うよりも愛しさの方が色濃く映っていた。

「ウーさんも思い切ったことするわよね。よりによって喰種捜査官を喰種にして、挙句の果てには自分の恋人に仕立て上げちゃうんだから」

ウーさんが惚れたのは、4区を担当していた捜査官だった。特例か何かなのか、調べてみると彼女はまだ19歳だった。
ウーさんはまずその子を攫うと眠らせて、赫包移植の手術をさせた。
私は彼に、薬や道具、医者を含めた一通りの準備を頼まれたのだ。
手術は成功。拒絶反応もなく赫子は少女に定着し、彼女は喰種捜査官から一転、喰種になってしまった。
ウーさんの次にとった行動は、少女の記憶の抹消だった。今までの記憶をすべて消し去ることで、喰種への抵抗や憎しみも取り除いた。
後は簡単だろう。
女物の服や身の周りのものを用意し、彼女が今までウーさんと過ごして来たかのように見せる。
彼が強いのは腕っぷしばかりではない。
きっと少女が自分の正体に気付くことは、ないのだろう。
彼女はゆっくりと、確実に、目の前にいる男の毒に犯されていくのだ。

「…あの子は、翼を折られたぼくの可愛い唄い鳥だよ」


     *     *     *

これ書くの楽しかった。



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