東京喰種 | ナノ
喰種は私にとって、都市伝説でもテレビの向こうの存在でもなく、最も身近な恐怖だ。なぜなら、私の目の前で実の兄を喰い殺したのが、他でもない喰種だから。
恐怖で悲鳴もまともに上げられなかった私は、体を喰い千切られていく兄の悲鳴で駆け付けた喰種捜査官によって助けられた。
兄は、助からなかった。
そうして私は、声を失くした。
事件から暫くは、家でも外でも喰種に怯える日々を過ごした。カウンセリングのために病院には長い間通っていたけれど、結局声は戻らなかった。それでも、少しずつ、ゆっくりと、普通に生活できるようになっていた。

それなのに。

「…っ…」
「逃げないでよー。オレ腹へって死にそうなんだよね〜」
「っ、……」
「だからさ、」
「…っ!」
「…君の体、ちょーだい?」

必死に首を振る。
やだ、やだ、やだ、死にたくない!
喰い千切られる兄の姿が頭を過った。
私も、あんな風に、なるの…?
怖くて震えは止まらないし、胃がひっくり返って吐きそうな感覚すらある。それでも、声は出ない。こんな人気のない路地じゃ、きっと誰にも見つけてもらえない。そうしたら、死体すら発見されない私はお墓に入ることすら……。そこまで考えて、自分が無意識に死ぬことを前提としていることに気づいた。
私はもう、生きることを諦めたの…?

「…あれ?もしかして怖くて放心しちゃった?…ま、いーや。いただkっ…」
「……?」

目の前に立っていた男の声が途切れ、瞑っていた目をゆっくり開ける。
立っている男は、いなかった。…その代わり。

「っ!」

既に息絶えた男が、地面に転がっていた。男を中心にじわりと液体が広がっていく。暗くて色までははっきりと見て取れないが、鉄の臭いが鼻をついた。……血?

「…、」

なんで…?
襲われていたのは、私の方で。
ここは人気のない路地で。
私は声を出せないから助けも呼べなくて。
相手は、人間より強いとされる喰種で。
それなのにどうして、この男が死んでるの…?

「…大丈夫?」
「っ、」

声を掛けられて、弾かれたように顔を上げた。
柔らかい声とは裏腹に、その主の纏う空気は普通の人間のそれではない。
そして、この薄暗い路地でもはっきりと分かった。…分かって、しまった。

その人の、眼球の色は、黒。

忘れもしないあの日、兄を喰い殺した、人の形をした獣と同じ、黒い眼球。
…私を救ってくれたその人は、喰種だった。


   *   *   *   *   *


…やっぱり家には、帰れないかもしれない。
数十分前、助かったと思っていた私は、今再び恐怖で吐きそうだった。
なぜなら。

「どうぞ。ここがぼくの家」
「…」

…私は今、喰種の家に来てしまっているから。
ああ、どうなるんだろう、私。
生きた保存食?…結局食べられるのか。
なんで、私ばかりこんな目に遭うのだろう。

「…あれ?もしかして怯えてる?大丈夫、食べたりしないから」

…なら、なんで。
非常食以外に、私を利用する方法があるとは思えない。

「きみ、可愛いね」
「……」

…は?

「…可愛いから、横取りしちゃった」

お腹空いてたわけじゃないんだけどね。
平然と言ってのけるその人に驚いて振り向く。明るいところに来て初めて気づいたが、彼はぎょっとするくらい奇抜な格好をしていた。思わずその姿に呆然としかけて、彼の言葉を理解した頭が我に返る。
この人の言い分は、つまり………どういうことなのだろう。

「着せ替え人形が欲しかったんだ。きみは色も白いし、髪も黒くて綺麗だから。飼いビトにしようと思って」
「…」

…かい、びと…?
今度こそ呆然とする頭で見上げた彼の顔には、私を襲った男のものと思われる、血。少し視線を下ろせば、彼の黒いパーカーの袖が水気を含んだように濡れている。そしてそこから漂う、鉄の臭い。

「あ、自己紹介してないね。ぼくはウタ。きみは……はい、」

名乗った彼は手近にあった紙とペンを渡してきた。
どうして?
受け取ろうとすらせず依然として呆然としたままの私の疑問に気付いたのか、彼は少しだけ目を細める。

「声、出ないんでしょ?あんな状況で悲鳴一つ上げなかったら、気づくよ」

…名乗らないという選択肢はないのだろうか。
できるだけ機嫌を損ねないように、かつ早急に帰れる隙を探そう。そう思って紙とペンを受け取った、矢先。

「あ、外には出ない方がいいよ。この辺は治安悪いから。人間が一人でうろついてたら、食べられちゃうよ」

…そんな。
私の思考を読んだように言う彼に絶句する。絶望に立ち尽くす私をよそに、彼は「コーヒー飲む?」なんて言いながら部屋の奥に消えた。
どうして。
どうして私なの?
私が何かした?
神さま。そんなに私が憎いですか。

「…泣かないで」

声と共に降ってきた、額へのキス。
いつの間にか戻っていた彼の両手には、カップが一つずつ。彼が身体を屈めたことによって近づいたマグカップの中に、滴が一つぽちゃりと落ちた。

「家には帰してあげられないけど、ここにいればきみは安全だから」

彼は落ち着いた声で言う。
…肉食獣と一つ屋根の下で暮らすことの、一体どこが安全なのだろう。そうぼんやりと思ったが、もう逃げようという気力すらなかった。
私はここから逃げられない。
渡されたコーヒーを受け取り、手を引かれるままにソファへ腰かける。

「着てほしい服があるんだ」

カップに口をつけ一息ついた彼は、別の部屋へ向かったと思うとすぐに戻ってきた。その手には、赤と黒のゴシック調のワンピース。しかも、何着も。
彼はその中の一つを選んで私に着せ、満足そうに微笑んだ。

「うん。可愛いね」

今まで私が着ていた服は何の躊躇もなくゴミ箱へ放り投げられ、私は彼の正面に立たされる。彼が取り出したのはスケッチブックと鉛筆。
疲れたら座っていいよ。
手を動かす彼の声は、出会ってからずっと同じ優しさと強制力を持っている。


     *     *     *

この後少しずつ女の子とウタさんが仲良くなっていけたらいいねっていうお話。



戻る