血の匂いがした。夜の穏やかな風に乗って、喰種の食欲をそそる香りが流れてくる。この4区ではそれほど珍しいことでもないが、その匂いのもとを見つけたウタはほんの少し目を見開いた。その視線の先には、まだ10代と思われる少女。その匂いは喰種のものだが、血に染まった白いはずのネグリジェはウタが近づいても起きる気配がない。もしかして死んでいるのかも、とウタが手を伸ばしたそのとき。
「!」
ひゅ、と紅いものが宙を裂きウタの手を遮った。
「…起きてるの?そんなに血の匂いをさせていたら他の喰種が寄ってくるよ」
少女の腰元から出てきた赫子たちは、蛇のようにゆらゆらと宙で揺れてウタを威嚇する。しかし少女自身は起きるどころかぴくりとも動かない。ウタは、いくつかある赫子のうちの一つだけが器用に少女の頬を撫でていることに気づいた。その動きは、少女を慈しんでいるようにも起こそうとしているようにも見える。
「……ぼくはその子に危害を加えたりしないよ。でも、お店のそばで人が倒れているのはちょっと困るんだ」
…ウタは内心、言葉が通じるのか不安だった。今まで赫子とコミュニケーションを取ろうとしたことなんて一度もない。そもそも勝手に動く赫子すら初めて見る。けれど、ウタの不安はすぐに解消された。少女の赫子は少しの間躊躇うように宙で揺れていたが、やがてゆっくりと姿を消す。
「……あ、イトリさん?女の子の服を用意してほしんだ。…うん、今すぐ。……違うよ。女の子、拾ったんだ」
少女を自分の部屋に運び入れたウタは、顔馴染みの女店主へ電話を掛けた。
* * * * *
目を覚ました少女はサラと名乗った。なぜあんな所に倒れていたのかを問うと、死ぬつもりだったと答える。そして、自分が真新しい服を着ていることに気づくと、ネグリジェはどこかとウタに詰め寄った。
「とってあるよ。落ち着いて」
血に染まったネグリジェを渡すと、少女はそれを抱きしめてぽろぽろと泣き始める。
乾いた血が少女の着ている服に染み込むことはないけれど、その匂いは敏感な喰種の鼻には十分だった。乾燥した赤黒い塊に、ぱたぱたと滴が落ちる。どれだけ滴を吸っても潤わない赤は乾ききった少女の心。壊れたように泣き続ける少女は失った心臓を抱きしめているようにも見えた。
ウタはそんな少女に気を遣うわけでもなく、「あ、そうだ」と間延びした声で部屋の扉へ向かっていた踵を返す。
「君、赫子出せる?」
「?…赫子………出ない…」
涙に濡れた顔を上げ、少女は赤い目をぱちぱちとさせた。ウタは微かに傾げた首で少女の腰元をじっと見つめる。少女も自分の腰元を振り返るが、出るはずの紅が出ないと分かると困惑の表情を浮かべた。
「?…前は出せたの?」
「…、」
顔を伏せて頷く少女の目は、悲しんでいるようにも安心しているようにも見える。影を落とす瞳の暗さは変わらないが、その奥で燃えていた攻撃的な炎はその鋭さを鈍らせた。喰種にとって重要な力であるはずの赫子。それなのに少女は、赫子を使えなくなったと知っても焦る様子が見られない。
「……あの、」
「はい」
「…お世話になりました。私は、これで…」
「それはいいけど、君、行くあてがあるの?」
ぺこりと頭を下げた少女は、ウタの言葉に首を傾げる。ウタも同じ方向に首を傾げてみるが、少女は赤い目を瞬くだけ。
「赫子も使えないみたいだし、行く所もないならここにいたら?」
「……でも、」
「…じゃあ、ぼくの仕事を手伝ってよ。それならギブアンドテイクでしょ?ぼく、マスク屋さんなんだ」
戸惑っている少女をよそにウタは強引に話を進める。ウタの迷惑を考えて少女が迷っているわけではないことは知っていた。死ぬつもりだったと告げた少女の言葉を、ウタは忘れていない。それでもウタが少女をここに引き留めた理由は、単に面白いから。意志を持ったように勝手に動く赫子と、人間の血の匂いのする服を抱きしめて泣く少女の喰種。ウタの興味を引くには十分すぎた。
「…マスク…?」
「そう。喰種の顔がばれないように」
ついてきて、と背を向けるウタの後を追って店内へ入った少女は、飾られたマスクたちを見て小さく驚きの声を上げる。少女が初めて悲しみ以外の色をウタに見せた瞬間だった。
* * * * *
「…ねえ、出てきてよ」
戸惑いつつも留まることにしたらしい少女を寝かしつけ、ウタは眠る少女に声を掛ける。正確には、少女の赫子に。
ウタの言葉に反応したのか、少女の腰元から紅い蛇が何本も現れた。ゆらゆらと宙で揺れるうちのいくつかは、やはり少女を大事そうに撫でている。
「とりあえずその子はここに置いておこうと思うんだけど、君はそれでいい?」
赫子のうちの一つが、頷くようにその先端を揺らす。
「その子を幸せにはしてあげられないかもしれないけど、少なくともこれ以上傷つかないようにはするから、安心して」
ウタがそう言うと、赫子はゆらゆらともどかしそうに動いた。ウタは何か伝えたいことでもあるのかと、試しに近くにあったスケッチブックとペンを渡してみる。ペンを掴んだ赫子がスケッチブックに書いていく線は、頼りなく歪だったが淀みなく進んだ。
“礼をいう”
ウタが覗き込んだ白には、歪ではあるがちゃんとした文字でそう書かれていた。
「…文字、書けたんだ」
どこかに顔――あるいは目に当たる部分があるのだろうか。
なぜ赫子だけが勝手に動けるのだろう。
脳の役割をする部分はどこなのだろう。
いつからこうなったのか。
………この赫子へのウタの興味は尽きない。
ウタがじっと見ている間も、少女を可愛がる紅い蛇たちは飛び出していた腕を布団へ戻し、あやすようにそのお腹を叩いている。
「…その子が大事?」
ウタが声を掛けると、赫子の一つが頷く。
「君は、何者なの?」
ウタが聞くと、赫子は再びペンを掴み白に歪な線を引いた。
“こいびと 人げん だった”
「へえ。食べられちゃったんだ。その子が喰種だって知ってたの?」
頷く蛇。さらに線を引いた。
“これでいい だが きずつけた”
「食べられたこと、怒らないんだね。君を想って泣いてる彼女が心配なんだ?」
また頷く蛇。俯くように垂れ下がった先端は、どこか悲しそうに見えた。
「何か伝えてほしいなら言っといてあげるよ」
ウタがそう言うと、蛇は逡巡するように宙で揺れていたが、やがてゆっくりとペンを掴む。引かれていく線に、今まではなかった迷いが見られた。
“わすれろ”
「君のことはもう忘れてってこと?」
ゆらりと縦に揺れる蛇。持ったままのペンで、再び線を加えていく。
“こいつを たのむ”
さらに迷ったように、ゆっくり時間をかけて引かれた線はそこで止まった。
「…ぼくに?」
ゆっくり頷く蛇は、ウタの返事を待つ気はないらしい。一つ、また一つとゆっくり消え始め、最後の一匹が少女の髪をひと撫でして蛇は完全にいなくなってしまった。
単なるエネルギー切れか、“彼”自体が少女の中から消えてしまったのか。…できれば前者であってほしいな、と考えながら立ち上がったウタは「あ」と声を上げる。
「…名前、聞くの忘れた」
* * *
実は一番最初に考えたウタさんネタはこれだったりする。
あんまり甘くない。
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