2018年4月19日

詩の講義。
三角みづ紀という人の、『オウバアキル』。
「どうしようもない夢をみた 男は手紙とカメラを残し 女を追って去っていった(……)私は確かに 男を愛していたのだが フィルムを現像できない怖さと(……)」
残されたカメラ。
女を追って消えてしまった男。
置いていかれた私。
使い切ったフィルムには、何が写っているだろう。
男の見ていたもの。
私? それとも、女?
なにを見ていたの?
知ってしまえば、もう今までの日常には戻れない。
とっくに壊れている日常。
壊れていると認めるのが怖い。
だから現像しない。
見てしまえば、嫌でも突き付けられてしまうから。
同棲していた男、というのは女を追って去っていった時点で死んだのだ。男そのものが、じゃない。私と一緒に住んでいた、カメラで写真を撮る男、が死んだのだ。そして残されたカメラ。中のフィルムを見るということは、遺品整理以外のなにものでもない。いなくなってしまったと、認めるのが怖い。そのままにしておけば、見ないままでいれば、知らずに済む。男が何を見ていたのか。もしかしたら、私と一緒に住んでいた男、というものが如何にして死に向かっていったかが写っているかもしれない。見なければ、知らないままで済む。ほんの束の間の不在、を装っていられる。残されたカメラとともに。
考えて泣きそうになって、考えるのをやめた。

胡蝶の夢。
荘周は蝶になってる夢をみた。
目が覚めたら荘周だった。
荘周は、自分が蝶になった夢を見ていたのか、蝶が荘周になっている夢を見ているのか分からなくなった。これを物化という。
自分が何であるか。
自我とは。
何を以て自分とするのか。
大事なことだ。
デカルトは言った。「cogito ergo sum」目に映るすべてのものも、私の身体さえも、本当に存在していると証明する方法はない。感覚の全てが何かによって作られた偽物だったら? 本当は何も存在しないという可能性さえあるのでは? ああだけど、今こうして現実を疑い、思考している私だけは確かにここに存在している。
だけど、思考している「私」が人間なのか蝶なのか、はたまた別の生き物なのか、という問いにデカルトは何と答えるのだろう。
……なんだっていい、というのは身も蓋もなさすぎるだろうか。
これが夢なら。
あの人が死んで、影が付き纏う私の日常。これが全て、何かが見ている夢だったら。それはそれで早く醒めて欲しい。
醒めたら私は何になっているのだろう。
ひどい悪夢だったと、笑えたらいい。
…あの夢が、現実だったらよかったのに。