2018年4月18日

海にしずむ、想像をする。
深く、青く、冷たい。
ゆっくりと沈んでいく。
息をとめて、遠ざかる光を見つめる。
海にしずむ、想像をする。
大丈夫、私を引き上げる手はないから。
あの人は、いない。
どこにも。
黒く小柄な彼もいない。
大丈夫。
涙は青い水にとけて消える。
さようならの声は届かない。
気泡だけが、ゆらゆらと昇っていく。

彼は、昨日カウンターにいなかった。
私の後ろをずっとついて回っている。
19時半まで暇だったせいかもしれない。話し相手もいなかった。ずっと退屈だったのだ。
女の人に顔を近づける男の人。私なら近いと鬱陶しがる距離だ。なるほど、好きでもない相手とは横並びになるべきじゃないな。女の人に心の中で手を合わせながら、思う。
顔が小さいね。本当だ、すごい、小さーい。背も高いね。頑張れば何かになれそう。注文を聞きに行った客にかるく絡まれた。何かってなんだ。1人でツッコミを入れる。客には愛想笑いをしておいた。

人それぞれ。
便利な言葉だ。
昨日の哲学の講義、時間が余って先生が生徒との雑談を望まれたので、そんな話になった。そもそも、講義の内容が許容とか自由とか、そんな内容だった。
ちなみに私はその先生がお気に入りである。ちょっと病弱そうな、非常勤の先生。
人それぞれ。
どういうイメージかと問われ、私は「面倒くさくなったら使う」と答えた。
人それぞれだよね。
私はそうは思わないけどあなたはそうなのね。ちょっと理解が難しいけど、そういう考えの人もいるよね。まあ、私は理解する気もないけど。はい、この話終わり。
そんなニュアンスが含まれている気がする。
ぼくもそう思います、と先生は言った。
理解できないものに時間をかけるより、もっとやることがある。別のことに時間を費やすべきだ、と。
「みんな違ってみんないい」そう言う人ほど、そう思ってない。大多数を正義と思い、大多数の側に居たがる。そして他の立場の人を見下す。そもそも「みんな違ってみんないい」わけがない。
デザイナーズチャイルドの話をしていた。
生まれてくる子どもの遺伝子を何か一つ弄れるとしたら、何を望むだろう。優れた容姿、優秀な頭脳、高い運動能力。そうすると似たりよったりな子どもばかり生まれることになる。それを望む親たちは、私たちは、結局誰も個性なんて認めていない。「みんな違ってみんないい」なんて、ただの綺麗事か、脳内お花畑のやつが言うセリフだ。
どういう流れでそうなったのか──途中経過は覚えている。LGBTの話をしていたことだけ。私は、彼らが早く社会的に認められたらいいと思っている。理解できない、気持ちが悪い、という人の記事を前に読んだことがあるけれど、違うのだ。彼らは理解して欲しいわけじゃないし、それを強要する権利も持っていない。彼らにすべきなのは、そういう趣向も存在する、と社会的に認めることだ。それはさておき──女性車両の話になっていた。先生と話している生徒は、女性だから、という理由で特別扱いされるのが嫌らしい。私からすれば、考えすぎな気もするけれど。プライドが高いのだろうか。女性だからという理由にしろ何にしろ、得をしたならそれを喜べばいいのに。難儀なひと。
講義終了の時間が近かった。
先生が、次の時間に女性車両について聞いてみたいと思います、と言っていた。
帰りみち。
セクハラを受けたという女性記者と、告発された政治家の事件を考えていた。あれもある種の、性の話だ。女性記者に名乗り出ろ、なんて、本当に馬鹿なことだと思う。どっちを守るべきか、という優先度が分からないのだろうか。彼女は、嫌な思いをして、少なからずその記憶が何度も思い出されるのを覚悟した上で、告発をしたのだ。私ならそんなことはしない。相手がどうなろうと興味はない。嫌なことは思い出したくない。自分の心を守るので精一杯なのだ。告発をした女性記者は、その分強い。その彼女に、これ以上嫌な目に遭えというのだろうか。馬鹿な政治家はまとめて滅してしまえばいい。
いつか死ぬ。そのうち。そう考えると、少し気持ちが楽になる。私は、私を守るために私を殺すのだ。

哲学の講義が始まった。
挿絵の入った、可愛い文庫本。『ここにないもの』というタイトルの本が、教科書の講義。
第一節。人生が無意味だ、ということについて。
レジュメもない、板書もしない先生。おじいちゃん。ずっと一人で喋っていたと思ったら、急に話を振ってくる。前から3列目に座っていたら、すごく当てられた。回数の問題じゃない。一度当てられたら、解放されるまでが長い。
どう思う? あなたは自分の人生が無意味だと思う?
ちょっと考えて、ないといえばないと思う、と答えた。
じゃあ、あるといえばあるんだ。裏を返せば。
頷いておいた。
要は、「人それぞれ」だったのだけど、その言葉は使わずにおいた。昨日と同じ先生ではない。「人それぞれ」と言ったところで、終わりにならないのは分かっていた。
説明を求められたので、答える。
人生って「私」そのものだと思います。「私」は世界を見る視点そのもの。視点に意味を求めても、答えは出ないというか。
…その後も何度か当てられた。ついでに言うと、次の講義も同じ先生だった。そこそこな頻度で話を振られた。
なんだろう、先生の正面にいたのが悪かったのだろうか。まあ、つまんなくて寝るよりはマシ。
人生は視点そのもの。視点である「私」が中心で、世界すら「私」から見れば人生の一部でしかなくて、それってすごく自己中心的な発想だと思う。でも、実際にそうなのだろう。「私」は「私」にしかなれない。誰だってそう。「私」の視点から見た世界が、人生が、無意味なものしかなかったら、つまらない。苦しいことばかりだったら、逃げたくなる。「私」の視点から見るのは、「今」のことだけじゃない。過去も思い出すし、未来のことも考える。目の前にあるものだけを見ているわけじゃなくて、目に見えないものについて考える、思考の世界だって「私」の人生の一部だ。
私の世界はずっと、あの人が死んだ時のまま止まってしまっているのだろう。過去を中心としている私の世界は、どんどん取り残されていく。そうして存在しない彼の、目に見えない影の世界で生きている。彼が文脈の中でしか生きられないように、私は彼のそばでしか息ができない。できなく、なった。
だから、海にしずむ想像の中に、彼はいない。