2019年4月16日

私がほんとうに望んでいる死は、私──固有名を持って、今の両親、友だち、記憶や経験などを有するもの──の死ではなくて、「私」という意識の死なのだと思う。同じ名前や、親や、友だちや記憶を持っていても、私が「私」であるという、この視点さえ消えてしまえれば、「私」はそれでいいのだと。「我思うゆえに我あり」の、「思う」側ではなく、「我あり」と認識するほうが消えてしまえばいいのだと。どこまでも自己中心的で、自分の一部すら自分と切り離しているけれど、消えてしまえばそれでいいと思っている部分こそが「私」であり、死にたがっているのもなのだ。
火星の話をするならば、地球で存続し続けてしまった私が「私」であったなら、喜んで「私」は消えると思う。なにせ、「私」が死んでも私は生き続けるのだ。これ以上のことはない。しかも、思考も何もかも変わらないのだ。それでも、分裂してしまった以上、火星の私は「私」ではなくなるし、やっぱり「私」は地球の「私」だ。
ただ一つ残念なことがあるとすれば、火星の私も「私」と同じ記憶や意識を持っていたコピーである以上、同じく死にたがっている可能性は高い。というか、そうでなければコピーは失敗に終わっていると言っていい。つまり、死にたがりな私は変わらず存在し続ける。