2019年4月15日

いちばん古い時代の哲学者の一人、ヘラクレイトス。四元素論を唱え、火が万物のエネルギーであると考えた。世界にある全てのものは、火と土と水と空気でできている、と。現代の科学からすれば、的外れもいいところだけれど、この時代にそんなものはない。子どもの頃、なんの常識も知らないままに作りあげた理論に似ている、と思う。たとえば、子どもの頃、私は声が有限だと思っていた。お腹の底に声のメーターみたいなものがあって、使い切ってしまうと声が出なくなるのだと。
その、ヘラクレイトスが言ったのだ。同じ川に一度も入れない、と。この話を聞いたのは大学一年生の頃だから、ちょうど3年前になるけれど、いつ思い出しても私は、兼好法師を思い浮かべる。兼好法師、吉田兼好、方丈記。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。奇しくも二人は同じ「川」を連想した。世の中は無常で溢れているのに。空模様で謳ってもよかったはずだし、揺れる炎に喩えてもよかったはずなのに。
二人が云っているのはどちらも同一性の話だ。
同一性。火星の私の話。
もともとはパーフィットという人が考えた話。私は違う人が書いた本で知ったけれど。
近未来、人は火星に、一瞬で遊びに行けるようになった。その方法とは、地球にある機械で「私」を読み込み、火星にある機械にそのデータを送る。火星の機械はデータを元に、地球の「私」と寸分違わない「私」の身体を作る。そして最後に、地球の「私」の意識をデータとして火星の「私」に送る。「私」の目線で見れば、地球で一度意識を失い、次に目が覚めると火星にいる、という結果になる。火星から地球に戻るときも同じ手順を踏む。このとき、置いて行かれる「私」の身体は破壊される。けれど、機械の故障で、あるとき地球の「私」が破壊されずに残ってしまった。目が覚めた地球の「私」は火星の「私」とインターコムを使って会話をするという奇妙な状況に置かれる。このとき、どちらも「私」であるといえるのか。
確かに双方とも自分が「私」であるという意識は持っている。けれど、二人同時に存在している以上、イコールで結べはしないのだ。「私」は「私」で、ほかの誰でもなくて、ましてや「私」の外に視点を持つことなどできないのだから。機械の故障がない、通常の状態であったなら、地球の「私」も火星の「私」も、なんの矛盾もなく「私」であると認識することができた。けれど、機械の故障により、「私」が「私」であるということを否定する視点が生まれてしまった。本来なら、メタの視点──3次元から2次元の世界を見るように、その世界の全てから外れた、云わば神の視点──でしかありえない認識を、たまたま「私」は持つことになった。
木の枝みたい、と思う。途中までは同じ1本の枝だったのに、あるときから二つに分かれて、違う葉をつけて違う花を咲かせていく。もし仮に、火星に行くという経験を花に喩えるとして、枝はどうしても花を咲かせたかったとしたら、花が咲いてない方の枝──つまり、地球の「私」──はやっぱり消えるしかないのだと思う。どちらも「私」であったかもしれないけれど、火星の「私」が地球に帰ってくる必要がある──花が咲いたという事実が必要──なら、現時点で不要なのは地球の「私」なのだ。いくらなんでも、火星の「私」をずっとそのままにしておくことはできないだろう。もし「私」が火星側だったとしても、その後一生火星にいるのはかなり嫌だ。
機械の故障さえなければ、「私」はなんの疑いもなく「私」でいられたのか。神の視点を得ることがなければ、自分の存在に疑問を抱くはずはもちろんない。それを疑い始めてしまったら、「世界は5分前にできた話」と同じくらい途方もないことになる。どちらがほんとうの「私」か、と問われれば、どちらもほんとうの「私」であるというべきなのだろうか。どちらも「私」であるという意識を持っている。けれど世界に二人「私」が存在するわけにはいかない。継続した意識はどちらも持っている。身体は端から問題ではない。もし問題の焦点を身体に当ててしまうなら、体細胞が入れ替わる度に人は別人に変わっていることになってしまう。ならば、どうするのか。

大人びている、とよく言われる。大人っぽい、だとか。大人がなにかもよくわからないのに、なにを以てそう言うのだろう。私のなにが、大人だというのだろう。依存する相手が欲しくて、影を創って、ぬいぐるみを抱えてうずくまっている。過去を向いたまま、前に進むこともできずに、ずっとずっと。それのどこが、大人だというのだろう。私が冷静に見えるのは、ただ感情を押し殺しているだけだ。それを大人だというのなら、もう大人になんかならなくていいと思う。