2019年4月7日

従兄弟の結婚式。
結婚式に出るのは人生で2度目だけれど、ウェディングドレスのタイプは初めて見た。教会で、神父様がいるやつでもなかったけれど。人前式、というらしい。参列者の前で、夫婦でいることを誓うのであって、神に誓うわけではないのだと、司会のお姉さんが説明する。
…いや、「誓う」って言葉のそもそもの意味は神に対して約束することであって、「誓う」と言っている時点で対象は神なんですけど??
心の中でツッコミを入れておく。
会場は小さめだけれど綺麗なところだった。外観はいかにも和風で、式場に通じる通路も全体的に木の色が多く落ち着いた雰囲気を醸している。式場は木の骨組みをガラスで覆うような構造になっていて、中庭を背景に新郎新婦が立つようになっていた。教会のようにステンドグラスや十字架が目立つおごそかなのも素敵だけれど、ここはここでシンプルでいい。ごちゃごちゃと無駄な装飾がない分、すっきりとした印象を受ける。
中庭は建物に囲まれるような位置にあり、いまは冬の終わりでいまいちぱっとしないけれど、それでも池に架けられた赤い橋が和を演出している。春の桜や秋の紅葉、真冬の雪景色ならいっそう素敵な庭になるのは容易く想像できた。
会場の雰囲気は素敵。
でも、式の最中も披露宴のときも、明らかに感動ではない鳥肌が私の表面をぞわり、ぞわり、と巡っていく。私はこの感覚につける名前を知らない。だから、今感じているのがなんの感情で、何に起因するものなのかがわからない。ただ、式のすべてが、子どもが演じるぎこちないお遊戯にも、どうしようもない茶番のようにも見えて、あるいは、知らない星の、知らない国の儀式のように思えて、これが結婚式であるならもう二度と来たくはないと、私の何かが拒絶した。理解できない気持ち悪さ、がいちばん近いかもしれない。それならばなんとなく説明がつく。実体の愛を持てない私は、いま目の前でまさに繰り広げられているそれを、不気味に思っているのだ。明確になにかを嫌悪するというわけでもないけれど、なんとなく──そう、ほんとうになんとなく──居心地の悪さのようなものを感じてしまって、どうにも苦手だと思った。
これが正しい幸福の形であると、それを受け入れられないお前は存在すら間違いだと、呼ばれてもいない神に言われているような気がした。たぶん、きっと、バイト先の後輩とつい最近そんな話をしたせいだ。就職後はルームシェアをする予定であると話すと、彼氏とかできたらどうするんですか? と言われた。そんな予定はないしたぶん無理だと返すと、ずっと独身とか寂しいじゃないですか、と言うのだ。
…そういう一般的な幸福の押しつけは好きじゃないと、言えばよかったのだろうか。結婚するのが当たり前であるかのような、常識であるかのような、そんな考え方には賛同できないと返せばよかったのだろうか。
蛙化現象の話をすると長くなるし、面倒くさいとも思った。その後輩は保育系の大学に通っていて、子どもが嫌いな私とは相容れない存在であることはわかっていたし、もし冷たい言い方だと思われてしまっては、そのあとが気まずくなるかもしれない。結局私は、曖昧に笑うだけでその場を終わらせたのだ。
会場に早く着いてしまい、中庭を見ながらぼうっと考え事をしていたとき、「結婚は人生の墓場」という言葉が頭をよぎった。結婚というのは、人生においてそこそこ大きな変化だと思う。ずっと同棲をしているような、事実婚の状態であるならば書類一枚を出すていどの変化は大したことではないけれど、そうでないのなら、結婚という変化を発端としてそれまでの生活ががらりと変わるのなら、それはもう独身であった自身の死であると言ってしまえるのではないか。人生の墓場、という言葉は少々理解し難いけれど、独身の死であるとは言えるはずだ。
つまり何が言いたいかというと、これは、華やかに飾られた、ある種の葬式なのだということ。しかも、ふたつぶん。

そして、今日の結論。人並でいいから胸が欲しい。
オフショルダーのブラが徐々に徐々に落ちてきて息苦しかったのだ、ずっと。