2019年3月20日

──葬式は泣くためにあるんじゃなかったのか。
彼が言う。
私は泣いていなかった。
昨日のお通夜も、今日の告別式も。
確かに、お葬式は死者のためではなく遺された側のためにあるもので、どんな人でもその場でだけは泣いていても何ら不自然ではなくて、お葬式は生者が堂々と泣くための時間なのだと、思ってはいる。
私は幽霊も、死後の世界も、あって欲しいとは思っても信じているわけではないので、お葬式をそういうふうにしか捉えることができないのだけど、それでも、泣いていなかった。
父の、伯母にあたる人が亡くなった。毎年会っていた。行くといつも、祖母やおじさんとともに歓迎してくれた。
悲しくないわけじゃない。
死はいつだって悲しい。
それでも、泣かなかった。
父や弟と冗談を言い合うくらいには、心に余裕があった。…違う。亡くなったことを、理解出来ていないのだ。たぶん。遺体は、今まで見たなかで──曾祖母と、祖父と、父の伯父の奥さんと──いちばん生前との姿が違っていた。癌で、食欲がなかったのだと思う。冬に会ったときよりずっと痩せていて、いつも会っていたおばさんだと思えなかった。
……おやすみなさい。
棺に花を入れて、心の中でつぶやく。
穏やかな人だった。
優しい人だった。
…過去形のわりに、私は未だにおばさんが死んだことを理解できていない。

お葬式自体はいいのだけど、よく知りもしない親戚の集まりは嫌いだ。誰だかわからないおじさんやおばさんが、偉そうに講釈をする。
やたらと馴れ馴れしく説教をしてきたおじさん──父の従兄弟、らしい──は、大学に行くのが目的ではいけないとか、大学に入るやつはろくな人間じゃないとか、小学校を中退して仕事を始めた知り合いの方がよほどできた人間だとか、とにかく好き放題喋っていた。馬鹿でもわかる詭弁をくどくどと、一体いつの時代に生きてるんだお前は、時代錯誤も甚だしい。…と、思っていたのだけど、あとから聞けば、弟はそのおじさんをいいことを言う人だと思っていたようで、私は生まれて初めて、弟を心の底から心配したような気がする。あいつは本当に大丈夫だろうか。
…彼に会いたかった。とても。あの人にも、先生にも。いかにも自分が常識人であると誇らしげに話す、その鼻っ柱を折って欲しかった。尾形さんはきっと、そういうことはとても得意だ。そしてたぶん、先生も。
私は心の中で馬鹿にしながら、話半分に聞いていた。まともに議論する、その労力すら惜しい。私はそうやって、考えていることを自分の内に閉じ込めてしまう。
──るりちゃん。大丈夫?
うん、なんともない。
…ずっと、行かないでって、俺を呼んでたから。
どうしても、思い出しちゃうの。今回はそんなに悲しくないよ。
あの人も、きっと焼かれたのだ。こんなふうに。
骨壷に納まらないからと、また押し潰されていく遺骨。ぐしゃり、ぐしゃり。どうして焼いてしまうのだろう。たとえ形だけでも、もう起きることはなくても、離れたくなんてないのに。焼いて、骨だけにして、小さな陶器の壺に納めて。どんどん離れていってしまう。記憶の中の姿と。もう二度と、言葉すら交わせないのなら、その内側と触れ合うことが出来ないなら、せめて、外側の形とだけは離れたくないのに。
何もかも、遠ざかってしまう。
死は悲しい。寂しい。
だから、どこにも行かないで欲しいのに。