2019年2月15日

ときどき、すごく寂しくなる。
だから彼がいるのだけど。
違うのだ。私は、私を閉じこめる人がほしい。閉じこめて、束縛して、自由を奪って、飼い猫みたいに、可愛がってくれる人。何も考えずに、ただ与えられるものだけを受け入れる生活は、きっと楽だと思う。
思考を放棄する時点で、私は「私」ではなくなるけれど。哲学すらできなくなるなら、脳なんてただのお荷物だから。
人が「寂しい」と思うこと。
カフェで勉強したり、人が集まるところに行きたがったり、そういう人たちや、その行動について。
どう思いますか、と哲学の先生は言っていた。わかりますか、と。
見ず知らずの人と同じ空間にいるだけで解消される寂しさなんて私にはわからないし、集団行動をするとはぐれたくなるし、3人以上いる時点で1人になりたがるくせに、一人でいると寂しいと思う私は、自分で自分がよくわからない。そんなことを紙に書くと、先生は次の週にその紙を読んで、この人はちゃんと自分のことがわかってるんですね、と言っていた。いや、何も分かっていません。わかってないことがわかっている、ということらしい。
…あれはいつの講義だっただろう。
人なんて、自分のことですら自分でよくわかっていないのだ。感情なんて、自分の内にあるものの中でいちばん制御できないものだと思う。内臓なら薬でなんとかできるのに。
だから人は感情に振り回される。
感情と理性を統合させることができたらどんなに楽だろう。合理的な、西洋の「神」のような存在に近づくのではないだろうか。
けれど、そういうのを指して「人間味がない」というのだから、もうどうしようもないのだ。私たちは、完璧になることを諦める他にないと思う。

最近よく、昔に戻りたいと思う。
中学のころ。大嫌いな人は何人かいたけれど、可愛い後輩と仲良くなってお話するのは楽しかった。休日を潰されるのは嫌だったけれど、後輩とフルートで遊ぶのも、合奏も、好きな時間だった。彼女たちを泣かせてしまったのは、きっと一生悔やまれる出来事だ。
退屈で、死にたいと思っていたのは変わらないけれど、いま戻れるのならもっとたくさん哲学の本を読むと思う。もしかしたら学校の先生の中に、話し相手になってくれる人がいたかもしれない。
ぼすと、友だちになれただろうか。学校は違うけれど、いるとわかっていれば見つけることはできるはず。もっと早く仲良くなりたかったのだ。
くだらない人間関係なんかさっさとやめて、お前なんか嫌いだと言ってやりたい。泣いて周囲の同情を集めるバカに、お前は自分の保身だけが大事なんだろうと罵倒したい。今ならもっと上手く、ひどく貶せるはずだ。考えただけで楽しい。いつもにこにこして中立を装う奴にも、お前はただの八方美人だろうと言いたい。誰のことも悪く言わない人間なんて、腹の中で何を思ってるかわからなくて気持ち悪いだけだ。
もっと仲良くしておけばよかったと思う人もいる。楽しいことだけ、楽しい人と話していたい。でもそうしたら、また勘違いされるのだろうか。相手にも、周りにも。私はただ、好きなことを話す友だちが欲しかっただけなのに。
クラス全体で、担任の先生に怒られたこと。何もしなくていい、と言われた。給食の準備も、掃除も、何もかも。クラス全体が。その日の放課後、クラス全体が残って生徒だけの会議をした。「どう謝るべきか」そもそも方向性が違うと、私はわかっていた。昔からよくそういう怒られ方をしていたから。「ごめんなさい」ではなく「ちゃんとやります」と言うのが正解だったのだけど、クラスメイトたちは戸惑うだけで、担任の先生が求める答えにはたどり着かなかった。私は正解を言うべきだったのだろうか。残念ながら私には興味のないことだった。
今ならもっと、彼を鮮明に創れる、とも思う。中学の頃より、ずっと。中学のとき、ずっとそばにいてくれたのは、宝石みたいな、冬の彼。きっと、彼がいれば何も怖くなんてない。私がやることをそばで、ときどき呆れながら、見ていてくれる。
それと、昔は意味もなく嫌いだった、いまはいちばん一緒にいて気が楽な友だちのこと。

今も昔も、思うこと。
彼が、ここにいてくれたらいいのに。そうしたら、もう怖いものなんて何もないのに。