2018年4月12日

朝起きるのがつらかった。目覚ましを止めて二度寝しかけて、ふと時計を見たら9時半だった。
あ、遅刻した。
寝ぼけた頭でそう思った。今日の講義は10時半からなのに。本当に寝ぼけていた。
一瞬だけ、すでに講義に30分も遅れている(一限は9時から)という絶望にかられたあと、すぐに二限は10時半からだったと我に返った。ぜんぜん間に合う。
起きたか、ねぼすけ。笑う彼の額にキスをして、のんびりと支度を始めた。
外は暖かかった。
講義は内容を確認もせずとったから、なんの話をするのか、プリントを配られるまで分からなかった。詩の講義だった。
「私はとりのこされていく。」
その一言だけが印象的だった。
ロラン・バルトは言った、らしい。"人は自分がいちばん好きなものを語ると失敗する"。じゃあ私は、私たちは、延々と失敗作を書いていることになるのだろうか。それとも、私がいちばん好きなのは、彼ではないのだろうか。
だとしたら、何?
わたしの、いちばん、すきなもの。
答えなんか出ないまま、気づいたら寝ていた。

教科書販売で買ったのは、哲学関連の本だけだった。『ここにないもの』という、挿絵の入った文庫本がかわいい。内容はふつうに哲学だけど。
人生が無意味だ、という話をしていた。人生をやり直したい、という人もいる。人生をリセットする。じゃあ、人生をやり直すとして、赤ちゃんからもう一度始めるとなると、今までの一切の記憶をなくしたそれは、やり直しでも生まれ変わりでもなく、ただの新しい人生だ。やり直したい、と願った人格は消えて(死んで)、ただの新しい命が生まれる。それって無意味。
そもそも、「人生が無意味」ってなんだ。意味があるかないかっていうのは、大きな枠組みのなかで、ひとつの要素が結果に影響を及ぼしたか否かだ。人生に意味があるかないかを考えるってことは、人生以上に大きな枠組みがあることになる。個人の一生において、人生以上に大きな枠組みなんてあるのか。今は思いつかない。けれど、思いもよらない"もの"があると、いつか出会えると思い続けることで、「人生が無意味」とは言わなくなるんじゃないか。
対話式の文章内で、二人のキャラクターは会話を進めていく。
思いもよらないもの。
たとえ私がそれに出会ったとして、私は生きたいとは思わないだろう。私の欲しいものは絶対に──世の中に"絶対"なんかない、と云うけれど、これは間違いなく"絶対"に──手に入らないのだから。
「もしも、」
"カレーの歌"が頭の中で流れ続けている。最近はずっとこればっかりだ。なんの意味もない──それこそ、どこまでも無意味な仮定のはなし。
彼はどこにも存在しないのだから。