2018年11月17日

意地悪な尾形さんにもすこし慣れた。
尾形さんは、私がかまって欲しいときにはそっぽを向いているくせに、自分の都合で私を引き寄せたりする。猫と称されるだけあって、ほんとうに気まぐれだと思う。…まあ、気まぐれなのは、お互いさまなのだけれど。

哲学の先生が、「今までした中で、いちばん悪いことってなんですか」と言っていた。悪いことって、やると記憶に残るじゃないですか、と。
わるいこと。
なんだろう。
嫌なことならいくつかあるけれど、悪いことはすぐには思いつかない。特に、人に迷惑がかかるようなことは、できるだけしないようにしている。…市販薬を用法通りに飲まない、とか…?
1日3回まで、と注意書きされている鎮痛剤。でも、痛くてしかたないから1日4回飲むこともあった。そうしたら、その薬が効かなくなってしまった。目先のことだけを優先したせいで生じた、悪いこと。でもそれって、誰かに迷惑がかかるわけじゃない。
「誰にも迷惑かけずに生きるのって、無理じゃないですか」先生の言うことは分かる。でも、だからこそ、無意識に迷惑をかけているのなら、せめて意識的に迷惑をかけずにいようとすることは、必要なんじゃないかとも思う。
──阿呆か、お前。
尾形さんは、心底軽蔑するような眼差しを私に向けた。
…どうして? 大事なことでしょう?
お前、そもそも「いい子」でいようとする動機からして間違ってんだろ。
……見抜かれて、いる。
私がほんとうは、見ず知らずの他人の目なんかさほど気にしていないことを。
私はほんとうは、「彼」に嫌われたくないからいい子でいようとしていることを。
──お綺麗な理屈並べてんじゃねえ。
……きらわ、ないで。だって、いい子でいなきゃ、迎えにきてもらえないから、だから…。
いい子にしていれば、迎えにきてもらえる。…一体いつから、そんな幻想が私の中に棲みついているのだろう。
──性格の悪い俺は嫌いか?
…ううん。
俺はお前を嫌ったりはしない。そばを離れたりもしない。それだけじゃ不満か?
ううん。
なら、あとは、なにが欲しい?
……なにも。
すうっと、彼は猫のように目を細めた。

哲学の講義を聞いているとき、尾形さんはとても退屈そうにしている。赤毛の彼は、ときどき先生を見てはくすくす笑ったり、私の思考に勝手に入ってきたりしたのだけど、尾形さんはまったく何もしない。90分、ただ黙ってそこにいる。ときどき私がちらりと横目で見ると、死んだような目でぼうっとしている。興味がないのかもしれない。あるいは、実際に兵士として戦争のまっただ中にいた経験のある彼にとって、戦争の倫理なんてものは所詮、つまらない理屈を並べているだけに感じるのかも。
──俺が気に入らないか。
どうして?
…不満なら、俺の性格を変えればいいだろう。
そんなことできたら、苦労しないよ。
私は意識して影に干渉することは、実はできない。ライトのスイッチのように、消すことはできるけれど、気づくとまた出てきたりもするので、たぶんこれも完全に操作することはできないのだろう。影の性格なんて、もっての外だ。そんなことができるなら、影はいまだに赤毛の彼の姿をしているはずなのだ。
私は意識して影に干渉することはできない。彼らは、感情の塊なのだ。理屈で感情がどうにもならないように、私の理性では彼らを制御することはできない。
……そもそもどうして、私があなたを気に入っていないと思ったの。
さあな。
…だいすきよ。でなきゃ、創ったりしない。あなたがどんな人であったとしても、私はあなたがすきよ。
…………。
黙りこんでしまった。