2018年9月9日

5日の夜中──日付的には6日の午前──に地震があって、約1日半電気が止まったり、物資が不足したりと、外は大変そう。
──大変そうって、随分と他人事だな。
そうでも、ない、つもり。
電気が消えたり、コンビニやスーパーの前に人が行列を作っていたり。非日常の中に突然放り込まれて他人事でいられるほど図太い神経は持ってない、つもり。
どうなるんだろう。
ずっとそう思っていた。
吉本ばななという作家のお父さんが書いた、技術の進歩は人間の原罪だ、という旨の文章を思い出す。罪? なぜ? でも、吉本さんはその進歩を否定はしなかった。進歩の歩みを止めるのは人間を辞めることだとすら言った。ならどうして、原罪なんて言葉を使ったのだろう。
技術の進歩が人間の罪ならば、その進歩した技術をいきなり取り上げられた私たちは今、その罪の報いでもうけているのだろうか。電気は身近で、偉大な、人間の発明した技術だ。
確かに罰と言っていいくらいには、不便で暇だね。
ふふふと笑うと、笑いごとじゃねえよと彼は眉間に皺を寄せた。本当にすることがない。スマホのバッテリーがないからゲームもできない。暗くなれば、漫画を読むのもちょっと不便になる。頑張って原作を読んで、翠の瞳をした彼を引き留めようとしたのだけど、突然やってきた地震のせいでその努力は泡と消えた。
…どうなるんだろう。
なにが、と問われればよくわからない。漠然とした不安なんてそんなものだと思う。電気は数日で戻ったし、物資も少しずつ増えていくのだろう。津波があったわけでもないし、死者はここ最近起きた災害に比べれば随分と少なかったような気がする。つまり、今のところ命の危機に晒されてはいない。ただ、言いようもなく、不安で手持ち無沙汰で心細い。
即死できたらよかったんだけどなぁ。全然、死ぬような感じじゃなかったね。
……怖いのか、ゆき。俺は、ずっとそばにいる。役には立たねェけど…それでも、ずっとお前の傍にいるからな。
あはは。役に立つって、なに? 私にとって"役に立つ"っていうのはね、私を殺してくれることだけだよ。ちゅうやさんが何を思ってそう言ったかはしらないけど……うん、そうだね、どんな意味であったとしても、ちゅうやさんは"役に立"たないね。
……ストレスなのか何なのか、予定日より2週間も早く、生理がきた。

電気が戻った地域でパチンコ屋さんが営業していることを、批判する人たちがいる。一方で、営業するのもパチンコ屋に行くのも当人の自由だ、と言う人や、経済が回るならそれでいいじゃないか、と言う人もいる。
…これは、ナッジの話になるのだろうか。ナッジ、は肘で横の人をつついて軽く注意をするような意味から来ている。法律で決まっているとか、それをすると罰せられるというわけではないけれど、人が顔をしかめるようなこと。リベラリズムの人たちや、リバタリアニズムの人たち──自由主義の人たち──は、「当人の自由だ」と言うだろうか。
私は、功利主義のほうが好きだから、パチンコ屋を営業することで得られる幸よりも、電気を使えなくて困ってる人たちの不幸が幸に変わることのほうが大事だと思うけれど。
でもまあ確かに、電気が回らなくてどうしようもないくらいに困ったら、計画停電でもなんでもすればいいと思う。いつ電気がつくか分からない不便さが嫌なのは私もよく理解したし、たった数時間で戻ると分かっている停電なんて何も困らない。

母が私に未来に話をするとき、何故こんなにも不快なのだろうと思っていた。たぶん、ずっと未来まで私が生きていくと疑いもしない母と、そのうち死ぬのだと思っている私との間に、どうしようもない温度差があるせいだと思う。あの人は、自分の常識が世界の常識で、自分の見てるものが正しいのだと、疑うことすら知らない人だから。"当たり前"がそうではないのだと、他者が見る世界は全く別物だという可能性を、考えもしないから。
きっと私が息苦しいと感じていることすら、想像もつかないのだろう。べつに、そのままでもいいけれど。
…つまんない愚痴よね。
俺に親はいねぇからな。そういうもンなのかとしか言えねえ。
創り出す幻は、心が子どものままである証だそうだ。姿や形は違えど、確かに影は、私が小学校に上がる前からいる。私は、思っていたより正しく私を認識していたのかもしれない。
子どものまま、成長していない私。
誰でもそうなのかもしれないけれど、私の中には、小さな子どものままの"私"がいる。そしてその子どもは、私の心の大部分を占めている。他に何がいるのかと言われれば、知識欲を求める心だったり、哲学が好きな心だったりするのだけど、たぶん、子どもの存在は何よりも大きい。だから、影は形を変えはしてもずっと存在しているのだと思う。
私は、こども。
いくつになっても、頼る大人が欲しい寂しがりやの子どものまま。