2018年6月19日

変な夢をみた。
いまのお母さんは本物じゃなくて、何百年も生きてる魔女がお母さんに化けてて、本物は私が子供の頃に捕まってて、釈放されるから迎えにいくっていう夢。魔女はお母さんそっくりに化けてたから、初めて会うお母さんは見慣れた外見をしていた。
…相も変わらずファンタジーな夢をみるなあ。我ながらそう思う。
そもそもなんで魔女がお母さんに化けて私たちの面倒みてくれてるの。なんかいい人だね??? 本物はなんで捕まってんの。何したのお母さん。
変な夢をみた原因はたぶん、「そして父になる」を観たせいだ。
子どもの取り違えの映画。
私は最初から最後まで一貫して、子どもを交換すべきではないと思っていたのだけど。
だって、子どもは6歳だった。
小学校一年生。
もう自我も生まれているし、何もわからない赤ちゃんとはわけが違う。
6年は長い。
子どもを交換するということは、それまでの6年で築き上げた親子関係を取り消すということになるかもしれない。
私が子ども側なら、お断りだ。
ただでさえ人見知りなのに、本当の親は別の人でした、交換します、なんて絶対にむり。
現に、映画の中で、子どもは「向こうの家に帰りたい」と泣くのだ。
血の繋がりがなんだというのだろう。
似てるとか似てないとか、どうでもいい。
6年は長いけれど、6歳はまだまだ子どもだ。
今までずっと親として慕ってきた人間が、きゅうに自分を手放すなんて、どれほどショックなことか。
子どもにとって親の存在は大きい。
両親の子どもとしての"私"──"私"は父と母の子どもである──という認識はとっくに生まれている。
タブララサ(白紙)とジョン・ロックは言った。人間は白紙の紙である、と。人は生まれたときは白紙であり、生きていく中で少しずつ情報が書き足されていくのだ。6歳の子どもには、すでに"私"についての情報があるていど書きこまれている。
大陸合理論の立場ならあるいは、子どもを戻すべき、というかもしれない。けれど、親子関係において重視すべきは、血やDNAといった科学的な理屈よりも、過ごしてきた時間や子どもの自我など、感情的なものだと思う。
本当の親が別にいたとして、でもそれは認識の世界ではただの他人なのだ。
ああそうですか。どうも、はじめまして。ちょっと似てますかね。ははは。
終了。ほかに話すことなんてあるだろうか。