2018年5月9日

何故か今年は哲学系の講義で戦争の話ばかりする。横顔がポットな我が国のトップである安倍さんが色々──憲法改正とか集団的自衛権とか、色々──やってたからかもしれない。
集団的自衛権と、集団的安全保障の違いを昨日初めて知った。自衛権の方は、加入した国だけがグループになって互いを守ったり敵を攻撃するのであって、安全保障の方は各国がみんなで守りあったりルールを破った国を攻撃するものらしい。最終目標が安全保障の方で、自衛権は途中経過であり不完全なものらしいけど、全ての国が安全保障の内容に同意する日が来るのだろうか。
なんだか、人口の少ない村で互いに話し合って一からルールを作ってるようなイメージがある。立場に上も下もないから他者を従わせることもできない。好き勝手するやつに制裁を加えられる人もいない。かといって、リーダーを決めるのも難しい。誰もが支配する側になりたがるし、誰もが支配されることを嫌がるから。アメリカは、トップが赤と黒のカードの人になってから、事実上の世界のリーダーを目指すのをやめてしまった感じがするし。話し合いもルール決めも遅々として進まない。そんな感じ。

アリストテレスは全体のための犠牲を"美しい"と言った。戦争の話だったので、それはつまり国のためと殉死した兵士の死を指すのだけど、公共の福祉なんかも理屈は同じだ。
「君死にたまふことなかれ、」与謝野晶子は言った。「君死にたまふことなかれ、(……)親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、人を殺して死ねよとて(……)」
あなたが死ぬことも、あなたが誰かを殺すことも望まない。どうか、どうか無事に帰ってきてください。
こんなことを言えば当時の日本では非難の的になるのは与謝野晶子も分かっていたはずだ。でも、言わずにはいられなかった。国なんかより、自分の大切な人の方がよっぽど大事だ。全体のための犠牲なんかくそくらえ。犠牲が"美"だなんて、頭のネジが吹っ飛んでるか、自己犠牲に酔ってる奴のセリフだ。死んでから得られる称賛になんの意味がある? 死んでしまったら、ぜんぶ、終わりなのに。

ロールズという人の、「無知のベール」。自分とか他人の、立場、能力、状況なんかを全部不明としたとき、個人は一番損をする場合の損をできるだけ少なくするようなルールを選ぶ。
誰だってリスクは背負いたくない。自分の置かれている状況や能力がわからない以上、優位かどうかもわからない。自分が一番下のヒエラルキーに属する可能性もある。だから、得を選ぶのではなく損を減らそうとする。
平等というか、公平というか、平和な感じがする。
……平等とはなにか、と言われると、難しい話ではあるけれど。どこかを揃えれば、どこかが不揃いになる。何を均一にすべきか。
平等とは権利で、公平とはルールのことらしい。センター試験の問題が全国で統一なのは公平だけれど、地方によって教育のレベルに差があるので平等ではない。昨日哲学の先生が話していたことだ。……そういえば、名前を覚えられていて少しぎょっとした。──さん。名簿も何も見ずに、先生は私の方を真っ直ぐに見た。髪が少々特徴的なせいだろうか。まさか覚えられているとは──顔と名前が一致しているとは思わなかった。
物覚えはいい方なのだろうか。去年もずっと先生の講義をとっていたせいかもしれない。
でもできれば、私の顔と名前が一致しているその情報は、削除していただきたかった。
顔と名前が一致しない生徒の中の一人、でいたかったのに。