2018年5月2日

Fさんの小説を買った。
『真夜中乙女戦争』。

「好きなことで生きればいい、と誰も彼もが言う。でも好きなものがない人間は、どうすればいい。」
人生の主軸にできるほど、なにかを愛せない。好きなものはあっても、それで生きていこうとは思わない。生きていけるとも思えない。
哲学の先生──私のお気に入りの──は、好きなことで生きるべき、と言ったけれど、好きなことを仕事にしてしまったら、そこには必然的に義務がつきまとう。義務という名の、つよくて邪魔な、重りみたいな鎖。そうすると途端に、"好きなこと"は荷物でしかなくなる。
それなら、生活環境や仕事条件で選べと言った大人の方が、幾分現実的だ。もっとも、存在しない影の中で呼吸をする私にとって、"現実的"という言葉がまず現実的ではないけれど。
好きなことで生きるべき、なんてのは、仕事という義務から目を逸らしたいだけの人間か、夢見がちな子どもの人が吐く言葉なのかもしれない。好きなことで生きていく、自分に酔いたい人間か。あるいは好きなことをしていると、自分は自由だと思い込んでいたいだけの人間か。
どっちにしたって義務の鎖で縛られていることに変わりはない。

「女と男が友達になれると、本気で思っているんだろうか。」
Fさんが男だと実感する、唯一の言葉だった。
高校の同級生の男子も、真夏の悪夢の男の人も、同じことを言っていた。男は女をそういう目でしか見ていないのかもしれない。
友達だと思っていたい男の同級生は何人かいる。そしてもし、それらの同級生もみな、同じ考えだというのなら、私は二度と彼らと会いたくはないし、一生恋愛なんてできない。
恋はする。たぶん、今も。けれど絶対に片想いでなければならない。私は、恋とか愛とかいう名前がつく好意を、性的な言動の一切を、受け付けられない。気持ち悪いのだ。私が、私自身を、愛せないのだ。自分が嫌いだと思うものを好きだと言う人とは、分かり合えない。
人それぞれ、で片付けばいいが、こればかりはそうもいかない。一刻も早く切り上げたい話題であると同時に、最も身近で深刻な問題でもあるのだ。人はきっと、誰かを愛さずに生きていけるほど強くはない。

東京には行ったことがある。秋葉原のメイドカフェ。吐き気がするほど人の多い竹下通り。スカイツリーを下から見上げるとめまいがした。あの街はどこもかしこも排気ガスと人混みと都会の匂いがする。
だけど、東京タワーには行かなかった。
夜景を見ても何の感慨も湧かない私は、あのオレンジの鉄塔を見てもきっと何も感じない。東京に憧れたことはない。東京タワーに片想いする主人公に共感はできない。
だけど世界観は好きだ。
それだけでいい。
ただ、もしもう一度あの街に行くことがあれば、私は必ずあのオレンジの鉄塔を見に行く。絶対に。そうして下から見上げて、まためまいを起こす。

夏なんかきらいだ。
虫。
日差し。
気温。
人混み。
海とか山とか。
あとそれを言い出す奴。
夏の夜の草の匂いは悪くないけど、やっぱり夏はきらいだ。
あの人は、どこにもいない。
嫌いなものは、ある程度近づいてみて、分かり合えないと悟ったら、とことん嫌うべきだと思う。遠慮なんかいらない。どうやったって分かり合えないものなんて山ほどある。そもそも私たちは、他者と完全に分かり合うことなどできない。なら、自分の価値観の中で生きるしかない。
私の中の"夏"は、嫌なもので埋め尽くされていく。
虫。
汗。
つかの間の悪夢。
死。
夏の日差しの中で、どうしようもない孤独と絶望を感じるのは私だけなのだろうか。
どんなに可愛い服を着たって、微塵も夏を好きにはなれない。肌の露出も嫌だった。
春もきらいだ。春を愛する人も含めて。
Fさんがいつか、「春生まれの人とは分かり合えない」と言っていた気がする。私もそう思う。人は誰とも分かり合えない。『真夜中乙女戦争』を読んでいくうちに、それがよくわかった。Fさんに共鳴することは多いけれど、共感はできない。根本が違うのだ。何のための憂いなのか。どこへ向かう嘆きなのか。
分かり合えなくとも、愛することはできるのだと知った。ついこの間誕生日だった赤毛の彼は、私と同じ春生まれだ。同感だと思うことは少ない。彼は、とても真っ直ぐに生きようとする人だ。きっと一緒に過ごせば一日と持たない。それでも、愛することはできる。

最後に。
好きな人に、好きと伝えることすらできない絶望について。