土曜日は傘を差して


朝、ザァァ…という音で目を覚ました。

「…雨、だね」
「…雨、だな。…仕事、いいのか?」
「いいよ。休みますって連絡したし。気分で休むのは、よくあることだから」

…よくあるのかよ、という彼の呆れたような心の声が聞こえるような気がした。
休日も平日も変わらずにいつでも静かな家の中では、雨の音が自棄に大きく響く。お互いの呼吸の音すら、はっきり聞き取れるような気さえした。

「…昨日、」
「…ん?」
「…変だと思ったの。おじさんと喋ったとき」
「変?」
「うん。変だった。あのおじさんとは、よく漫画の話、してたから…。あなたの姿を見て、気付かないはずがないもの。本物だとは思わなくても…似てるね、くらいは言うはずだった。初めて会ったとき、私がそうだったように」

雨の音しか聞こえない室内に、私の声は静かに響いた。
昨日あれから、ずっと考えてた。どうしておじさんが、シロくんに何の反応も示さなかったのか。私は、一つの仮説を立てて、それを確かめる為に他の友達にLINEで聞いた。――“ねぇ、BLEACHっていう漫画、知ってる?”――
…誰一人としてYesと答えなかった。以前、BLEACHの話で盛り上がった人も多いのに。
つまり。
この世界から、BLEACHという漫画の存在が消えてしまったということ。
…この屋敷の中を除いて。
…恐らく、シロくんがこの世界に来た瞬間に。

「俺がこっちに来たことで、何か影響が出たってことか…」
「うん、多分…。こっちにあったシロくんの世界の物語の存在自体が、消えたんだと思う…」

BLEACHの存在そのものが消えたのだとしたら、その登場人物であるシロくんにそっくりな(本物だけど)少年がいても、誰も反応しないだろう。
だってシロくんは今、「変わった容姿の少年」でしかないのだから。

「…シロくん、」

…やっぱり彼は、帰らなくてはいけないのかな…。

「少し、お散歩しよう」

こういう時は、外を歩きながら頭を整理するの。
感情に流されず、物事を論理的に考えて。
どうすればいいのか、冷静になって。
ちゃんと、正しい答えを出さなきゃいけないから。
…雨は、朝よりずっと弱くなっていた。
シロくんには藍色の傘を渡して、私は緋色の傘を差して、静かな優しい雨の降る西洋の街並みをゆっくりと歩いた。
シロくんは今、右足が透けている。昨日の夜は脇腹で、今朝は肩だった。今は、右足の膝から足首までが半透明になっている。
きっともうすぐ、シロくんは向こうの世界に帰ってしまう。
…あるべきものが、あるべき所へ帰る。当たり前のことなのに…どうして私は今、こんなに泣きそうなんだろう。
昨日、半透明になったシロくんの左手を見た時から、言い表せない感情が心の殆どを占めていた。今はもう、その感情の所為で思考すらちゃんと働かない。
自分のことなのに、自分が理解できなかった。

「…俺、昨日の夜夢を見たんだ」
「夢?」
「あぁ。誰だか分からねぇが…俺に聞いて来るんだ。“元の世界に戻りたいか”って」

…どく、と心臓が跳ねた。
シロくんが、いなくなっちゃう…?

「…シロくんは、何て…?」
「……まだ、帰れないと言った。やりたいことがあるから、もう少しここにいるって」

少しほっとした。シロくんのやりたいことは分からないけれど、もう少し一緒にいられるんだ、と思った。

「…けど、」
「…?」
「俺の“これ”は酷くなっていく。もしかしたら…もう、ここにいられる時間も長くねぇのかもな」
「…っ、」

シロくんの夢は、ただの夢でしかなかった…?
…普通に考えれば、当たり前の話。
夢の中での問答で、そんな重要なことが決まるはずないのに…どうして私はほっとしたんだろう。
…馬鹿みたい、本当に。

「…帰りなよ、シロくん」
「…!?」
「あっちに帰って。あるべきものは、あるべき所に。…シロくんはここにいるべき存在じゃないんだよ。それに…私だけが知っていても誰ともBLEACHの話を出来ないんじゃ、つまんないし。だから、ごめんね。ちゃんと帰って、あっちに」

…なぜだか分からない。
何だかとてもイライラした。
シロくんと目も合わさずにそれだけ言って、水溜りも気にせずに走って帰って来てしまった。
…最低だ、私…。



(この感情の名前が分からない…)