木曜日のスカーレッド


「今日は仕事なの。お昼ご飯は適当に食べててね。夕方くらいに帰るから」

いい子で留守番してるんだよ。
…珍しく早起きしてきたと思ったら、あいつは手際よく準備を整え、まるで子供に言い聞かせるような口調で俺にそう言い、出掛けた。

「…俺は子供じゃねぇよ」

ぽつりと呟いた俺の声は、誰もいない室内の空気に溶けて、消えていった。
…広い家だ。俺が案内された部屋の他に、客間がいくつもあった。一度だけあいつに連れて行かれて入った書斎は、本棚で埋め尽くされているにも拘らず驚くほどに広かった。
あいつは、この巨大な家に一人で住んでいるらしい。一体親がどんな仕事をしていたら、こんなでかい家を建てられるんだ。
無駄に広い屋敷の中を一通り見て歩いたところで、俺はため息を吐いて踵を返した。
   ボゥンッ

「!!??」

何 が 起 こ っ た 。
目線が一気に下がったかと思うと、気付いた時には既に両手足が床についていた。

「…にゃー(まじかよ)…」

…あいつ、また余計なこと考えやがって。
この世界に於いて、俺が猫になるきっかけはあいつが心の中でそう念じることだった。あいつが望めば、俺はこの姿になる。…理不尽だ。よりによってあいつの意思かよ。昨日、きっかけが判明したとき俺は深いため息を吐いた。
…が。さらに理不尽なのはここからだった。
もう一つ、知るべきこと…つまり、俺が元の姿に戻る方法。…それは、あいつの膝の上から床に向かって飛び降りること。これはかなり色々と試した――そんなの認めたくない、という意地から――が、それしかないことが判明した。
あいつの膝と同じ高さの椅子、あいつの肩、その他色々なところから飛び降りてみたが、元の姿に戻れたのはあいつが座っている状態の膝の上から床に向かって、俺が飛び降りた時だけだった。
…つまり。
あいつが仕事に出かけ屋敷内に俺しかいない今、俺がこの姿から戻るのは不可能。

「にゃあああぁ!!(ふざけんなー!!)」

叫んでみても、口から発せられるのは仔猫の鳴き声だけ…。
無人の屋敷に、俺の鳴き声が虚しく響いた。


* * * * *


「やー、ごめんごめん」
「…(怒)」

俺を猫にした自覚があったのか、昼飯の時間帯に一度帰ってきたそいつは、俺を戻したあと詫びだと言って俺を外に連れ出した。
入り組んだ住宅街を抜けると、不思議な街並みが視界いっぱいに広がる。

「おい、最近の現世はこういう建物が流行なのか?」
「違うよ。この街がそういうデザインなの。『日本の中のイタリア』がこの街のテーマで、道路も建物も西洋風なの。…見慣れない街並みでしょう?シロくんはこういうの嫌い?」

…街に好きも嫌いもねぇだろ。とは思ったが、さっきまで雨が降っていたのかどんよりとした景色の中で、そこだけに色が着いたかのようにその存在を主張する真っ赤なバラを見て、
「綺麗だとは、思う」
そう言った俺に、そいつは少し嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔に、一瞬息が苦しくなったような気がしたのは、気の所為だと思うことにする。

「お昼、和食屋さんで良かった?」
「ああ、どこでもいい」

変な気を遣ってか、そいつの気分だったのか、どうして和食屋という流れになったのかは知らねぇが、どこからどう見ても和食の店とは思えない建物に歩みを進めながら、そう聞いてきた。
おいおい、まさか和食ってのは、海外の奴らが何かを勘違いして作ったような、果物を白飯で巻いたりするアレを指してるわけじゃねぇよな?
そいつの入って行った店に一瞬眉間の皺を深くしたものの、俺は意を決して中に入った。…入った途端、拍子抜けした。
外見はあんなにも日本の和の精神とはかけ離れていたのに、店内は尸魂界の飲食店とほとんど変わらない造りと雰囲気だった。

「シロくんー、こっちだよ!」

店の奥の個室――ご丁寧に掘り炬燵まである――に座り俺に手を振るそいつは、ここの常連らしく店員と親しげに話している。
注文した料理もちゃんとした日本の味で、巻きものの具に果物が入っていたりはしなかった。

「ここの料理、うまいな」

ほっと一安心して、ほぼ無意識のうちにそう呟いていた。

「あ、ほんと?うれしー。じゃあ家でも作ってあげるね」
「…は?」
「私、このお店のオーナー。ここのシェフに料理教えたの、私だから」

聞けば、他にも洋服や雑貨、ホテルにバーまで、色々な種類の店を仕切っているんだとか。
それであの豪邸に一人暮らしか…。親じゃなくてこいつの金で建てた家だったんだな。
この店に来るのは本当だったようで、曰く「昼食代が浮く」のだそうだ。まぁ、オーナーなら金を払う意味もねぇからな。
で、一つの疑問が浮かぶ。

「何でバイトなんかしてんだよ」

今朝確かに、「宝石店で週2〜3のバイトをしている」と言っていた。
だが、あの豪邸に住んでいる時点で金に困っていないのは一目瞭然だ。

「何でって…やりたかったから…?…あ、シロくんの考えていることは大体わかるし、多分それは普通だよ。中には、世の中をナメてるって言う人もたまにいるんだ。でもね、私子供のころから他人にはあまり興味がなくて、自分が良ければ周りの目なんて全然気にしなかった。楽しければ、何言われてもいいやって。私がやりたいことをしてるだけで、それが誰かの役に立つなら、これ以上幸せなことはないと思うの」

目を輝かせながら喋るそいつに、“気の所為”では済まされない程の感情が胸の内から湧き上がるのを感じた俺は、目を細めてそいつを見つめた。



(眩しかったのは真っ赤なバラか、それともこいつか)