春雪に接吻


…広い広い森の中で、獣のような叫び声と大きな足音が響いていた。
必死に逃げる小さな影と、それを追いかける大きな影。
同じ形をしている二つの影は、形だけ見れば親子のようにも見える。しかし、大きさは巨人と小人ほども差があり、また追いかける方の目は、目の前の小さいけれど大きな獲物を捕えんとぎらついていた。
小さな体で必死に巨大な化物から逃げている者の目には、うっすらと涙が浮かぶ。
(お母さん…何で…)
いつも自分を護ってくれていた母が突然、巨大で不気味な化物へと姿を変え、襲い掛かって来たのだ。
実はこの子どもの霊圧の高さに寄ってきた虚が、子どもの母親を殺し化けていたのだが…そんなことは知る由もなく。
ただ、自分の母だったはずの化物から必死に逃げることしか、この小さな子どもには出来なかった。
(助けて…誰か、助けて…怖いよっ…)
自分に向けて、後ろの化物が手を伸ばしていることを地面に映る影を見て悟り、子どもは目を瞑った。

「――霜天に坐せ、氷輪丸っ!!」

  パキパキ…ッ
見知らぬ声が聞こえ、何かが瞬時に凍りつく音がした。
子どもは立ち止まって、恐る恐る後ろを振り向くと…上下黒の服を着た少年が、手に持っている刀を腰の鞘に納めるところだった。
少年の足もとには、いくつもの氷の塊。よく見るとそれらは、先程まで子どもを追って来ていた化物の残骸だった。

「この辺に、やけに虚がいると思ったら…お前に寄って来ていたのか。…大丈夫か?チビ」

少年は未だに震えている子どもに手を伸ばす。
子どもは近くにいるだけでも十分に感じられる程、霊圧が高かった。その小さな頭に手を置いて直接触れると、更にその霊圧の濃さを感じる。
(ばあちゃんの家に預けるのも危険かもしれねぇな…。どうするか…)
逡巡する少年の脳裏に、一瞬“ある言葉”が浮かんだ。が、少年はそれを否定するように首を振る。
(…何を馬鹿なことを考えてんだ、俺は…)
それは、今は上司でありかつて自分の進むべき道を示してくれた人が、人の家に入り込んでまで言った言葉…。
《…ぼうや。あんた死神になりなさい》
…同じ言葉を、目の前の小さな存在に言えるわけがない。
だが、と少年は考える。
このまま流魂街にいては、また被害が出るだけだ。

「おい、お前…俺と一緒に来ねぇか?」

語りかけるように言いながら、その小さな頭から手を離し両手で抱き上げようと腕を伸ばす。…が、子どもは急に警戒の色を見せると、少年の腕をすり抜け森の奥へ去って行ってしまった。

「おい、待て!」

少年は慌てて追いかけたが…その姿はもうどこにも見当たらなかった。

「…あいつ…」

…印象的な瞳をしていた、と少年は思う。
少なくとも今まで、見たことのない瞳。
目についての知識など無いが、それでもあの子のような瞳が珍しいことは分かった。




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