淡く脆い約束を | ナノ


  2.幸福な世界を横目に


まだ、帰りたくないな。
そう思ったのがいけなかったのか。それとも彼のことばかり考えていた所為か。フラフラと歩き、気付いた時には繁華街にいた。…というか、ポケットの中でブーブーと鳴っている携帯によって、我に返った。
…どうして、よりによってこんな所に来てしまったんだろう。

「…もしもし」

少し泣きそうになるのを堪えて、携帯を耳に当てる。

「優衣か!?お前今どこにいんだよ!探してんだぞ!」

電話の向こうで、黒崎くんが怒鳴っている。ハァハァと荒い息遣いも聞こえるから、きっと走り回って探してくれていたんだろう。

「…ごめんなさい。今、帰るから…マンションに入ってて」

番号は…と、マンションの部屋の暗証番号を言いかける。…が。

「迎えに行くから、そこを動くな!お前一人だと、またフラフラどっかに行っちまうからな!!」

こっちに来る気満々の黒崎くんに大人しく現在地を伝え、電話を切った。
…どうして、よりによってこんな所に。こんな、彼との思い出が一番多い所に。
黒崎くんが見つけやすいようにと、目につく所にあったベンチに座り、ため息を吐く。ざわざわと沢山の人が行き交う中で、自分の周りだけが自棄に静かに思える。…ふと目に入ったカップルに、胸が締め付けられるような気がした。
ほんと…どうして私、こんな所に来ちゃったんだろう。さっき、もう忘れようって思ったばかりだったのに…もう、彼との思い出にしがみ付いてる。

「…馬鹿みたい…」
「あぁ、本当に馬鹿だぜ」
「!!」

独り言を、涙の代わりに口から吐き出しただけのつもりだったのに、何故か同意の言葉が聞こえ、驚いて顔を上げた。と、同時に両頬をつままれる。

「い、いひゃい…」
「心配させた罰だ!」
「ご、ごへんひゃひゃい(ご、ごめんなさい)」
「…ったく、」

やっと私の頬から手を離してくれた黒崎くんは、短いため息を吐くとオレンジの頭をガシガシと掻いた。…さっきの制服姿から一変、紺のデニムの上にTシャツにパーカーというラフな格好の黒崎くんは、走り回った所為で少し汗ばんでいて、まだ高校生のくせに(私もだけど)色気すらあった。一言で言うなら、「かっこいい」。

「…ほら、帰るぞ。勉強するんだろ?」

息を整えてから差し出してきた黒崎くんの右手に、私は自分の左手を重ねる。

「…うん」

途端にクイ、と引っ張られ、予期していなかった私の体は見事にバランスを崩す。

「わ、」
「…すっげー…心配した…」

予期していなかったのは私だけ…つまり、黒崎くんはわざと私のバランスを崩させたようで、何の迷いもなく流れるような動きで私を自らの胸で抱き止めた。
耳元で、ため息とともに呟かれた言葉に、申し訳なさが増す。通り過ぎていく人たちの好奇の眼差しを感じ、何とか黒崎くんの腕から抜け出そうとするものの、黒崎くんは腕の力を強めるばかりで全く解放する気がなさそうだった。

「…これも心配させた罰?」

少し冗談めかしながらおどけて言うと、予想に反して真面目な声で「そうだ」と返って来たものだから、もうそれ以上何も言えなくなってしまい、大人しく解放されるのを待つことにした。
…彼なら、こんな時なんて言ったかな。やっぱり、こうやって怒った後に、安心するために私を抱き締めてくれたかな。それとも…私がいなくなっても、気にも留めずに仕事を再開してたかな。
あ、でも。きっと、私を探して、見つけ出してくれて、こう言うの。
――『俺から離れんじゃねーよ、バカ』――
きっと、そう。

「…好きだ」
「え?」

そっと、耳元で吐き出された黒崎くんの言葉で、現実に引き戻される。

「…優衣が好きだ…だから、どこにも行かないでくれ…!」

真剣に、苦しそうに、切なそうに、そう言った黒崎くんに私は何も言えなかった。



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