ゆっくりと、浅井はまばたきをする。
しかしそのゆっくりと瞼をおろす早さとは対照的に、浅井の目はスルスルと上下に動く。
その動きを幾度か繰り返したあと、右手の親指を少し浮かせて、浅井はペラリとページを捲った。
浅井の、耳にかけた真っ直ぐな黒髪が一節落ちる。まるでさらり、と音がしそうだった。
休憩中の騒がしい教室の中にあって、浅井の周りだけはまるで音が無い空間のようだった。
それくらい、熱中している。
浅井が持っている本には、落ち着いたクリーム色のブックカバーがかけられていて、何を読んでいるのかはわからない。
浅井は視線を本から動かさないまま、右手で髪を耳にかけ直した。
その仕草に、目を奪われる。
浅井は、特別美人というわけではない。
成績も標準、性格もあたりさわりない、目立つことのない生徒だ。
なのになぜ、こんなにも特別に見えるのか。あれはつい2週間程前、上着のポケットから取り出そうとした懐紙が一枚、ひらりと落ちた時のことだった。
屈んで拾おうとした俺より先に、浅井が手を伸ばした。
「はい」
とだけ言った彼女は少し微笑んで、すぐに離れた。
会話など無い。
しかし、その時ふわり、と香った甘い香りに、浅井が背を向けてからやっと気づく。
あぁ、そういえばその時も浅井は少し首を傾けて、髪を耳にかける仕草をしていた。
その時の香りを思い出して、俺は少し息苦しくなる。
一体彼女の何が俺をそうさせるのか。
知りたい、そう思った時、彼女がふと顔を上げた。
俺は目をそらさなかった。
浅井も目をそらさない。
そして、なんだか恥ずかしそうに、あの時と同じように首を傾げ、髪を耳にかけながら浅井が微笑む。
俺はまた少し、息苦しくなる。
俺は浅井に近づいて、他愛ない会話を持ち出す。
そうしながら、この息苦しさを解消する方法を考えた。
浅井は、俺が質問した、本のことを話している。
しかしその言葉は俺の頭に入ってこない。
座っている浅井の髪は、上から見ると蛍光灯の灯りをツルリと反射して、白く輪のように光っている。
このことを、『天使の輪』に例えた人がいるらしいが、なるほどうまいことを言う。
確かにまるで天使のようだ。
この言葉を残した先人は、その相手にどんな感情を抱いていたのだろう
浅井の髪に触れたいと思った。
またあの時のように甘く香るのだろうか。
ふと気がつくと、浅井が驚いた顔をしている。
俺は無意識に浅井の髪に触れていた。
何をやってるんだ、俺は。
心臓が跳ねた。
ドクドクと大きく、耳元で聞こえた。
「…痛みの無い髪でうらやましいな」
咄嗟にそう言った。
動揺を悟られたくなかった。
しかし会話の流れがおかしい、不審に思われただろうか。
「ありがとう」
と、頬を染めていう浅井とチャイムがなるまで適当な会話をし、席に戻る。
その途中で後ろを振り向いた。
浅井が、たくさんまばたきをして、赤く染まった頬を両手で包んでいた。
甘い香りが蘇る。
その時やっと気がついた。
俺が浅井に惹かれていること
浅井もまた俺に惹かれていること
席について手を組んだ。
両手が熱い。
甘い香りが離れない。
冷静になろうと目をつぶるが、今度は浅井の天使の輪が離れない。
これが恋、なのか。
冷静になることを諦めた俺は考える。
今度浅井に
「浅井は、天使のようだな」
なんて言ったら、彼女はどんな反応をするのだろう。
顔を赤くして俯く彼女を想像して、香るはずのない甘い香りを思い出して胸を高鳴らせた。
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