終章

 ちち、と鳥の鳴く声がする。確か自室で寝ていたはずだが、と寝返りを打った嵐の手を、柔らかな芝の感触が包んだ。
 途端に現実へ引き戻された嵐は飛び起き、盛大に揺れる視界から吐き気をもよおす。吐き気の前にあえなく地面へと戻ったその目に、今度は桃色の大瀑布とも言える光景が目に入った。
「……桜」
 今度はゆっくりと起きて、自分がいる場所を確認する。どうやら屋敷のあの桜の前にいるようで、隣では槇が唸りながら体を動かすのが見えた。
「……外に出れたのか……」
 現実を一つ一つ確かめるように呟く嵐に応えるかの如く、桜の枝に止まった鴉が小さく鳴いた。
 整えられていた羽根もぼさぼさで、見るも無残な野良鴉の姿だが、黒く丸い瞳が「なんでもないさ」と言っているようでおかしくなる。しかし、嵐の無理難題を前に大半の力を使い果たしてしまったようで、それ以上鳴くことも羽ばたくこともせず、ただ桜を眺めているに留めたようだ。
 確かに見事である。田野倉に連れられて見た時も素晴らしいとは思ったが、あの時は底冷えするような畏怖も伴っていた。
 だが、今目にしている桜は温もりと慈愛に満ち、見る者全てを幸福にするかのような美しさである。散りかけていた部分には新たな花が蕾をつけ、今まさに咲き誇ろうかというところだった。
『やれやれ』
 思わず見入っているところに、野太い声と溜め息が被せられる。驚いて声のする方を見ると、桜の太い根に体躯のいい壮年の男が腰掛けているのが見えた。顔全体を囲むような黒い髭は熊を思わせるも、身にまとう薄い若葉色の衣や落ち着いた雰囲気は人外であることを悟らせた。
 男は嵐を見て、苦笑する。
『人の身ながら無茶をする。お陰で久方ぶりに空を拝めたが、年寄りには堪えるぞ』
 桜の花弁が雨の如く降り注ぐ。先刻見た、根と骨片の雨とは違い、穏やかに嵐の体へ降り注いだ。
 とても暖かい。
「……あなたが、獣の最後の一頭ですよね」
 嵐は頭の中にあった考えを口にした。男は一瞬面食らった顔になるも、すぐに豪快に笑い出す。
『なるほど、無茶をするのは目がいいからと見える。確かにその通りだ。やはり生きている人間の方が強い。特に妄執とまでなると、我々のような存在は下ることでしか意識を保つことが出来ぬ』
「それで田野倉……あの犬に」
『そうだ。元よりいい土地ではなく、体が毒されたところへあの獣が来た。下ることで己を保てるなら、と思った次第だが、よもやこのような惨劇を人に与えるとはな。お前たちにはすまないことをした』
 言葉の後半では後悔がにじみ出る。

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