二人─1
彼は少しばかり傾いた椎の木に寄り掛かかった。
彼女は彼から少し離れて、同じく椎の木に寄り掛かった。お互いの足元では笹が揺れている。
「あなたは、村の人?」
彼女は問いを繰り返した。考えてみれば尋ねはしたものの、返ってきた言葉もまた、質問の為に放たれた言葉だった。
「知らない? じゃあ君は村の人間じゃないね」
彼はくすりと笑う。静かな笑い方だ。
「どうしてそう思うの」
小馬鹿にされたようで、彼女はむっとしながら返す。
「小さな村だ。隣近所の子供の顔まで把握出来るような村なのに、僕を知らないっていうのはそういうことじゃないかな」
「隣村に嫁いだ女かもしれない」
「そうしたらすぐにわかるさ。誰それの娘が嫁いだって。嫁入り行列は一大行事だもの」
「奉公に出た女かも」
「同じ。……面白いね、君は」
彼はくすくすと笑い始める。
「どうして」
「だって、自分の事をそう言う人はいないもの」
「記憶がないかもしれないわ」
彼女もくすりと笑いながら返す。不思議と彼との会話を楽しんでいる自分がいた。
あれほど、人間は恐怖だったのに。
「そうか、それなら仕方ないな」
「そうすると、あなたは村の人なのね?」
「隠す事じゃないからね。そうだ」
「どうして山に入ったの」
彼女が使う道は獣道と言っていい。人間が立ち入ることは稀で、更に彼のような軽装の人間が立ち入るのは稀どころか初めてだ。
歩き慣れているような足は何度も通い詰めている証だろうが、それにしても、彼のような男が山に立ち入る理由が彼女にはわからなかった。
彼は表情を変えず、前方を見つめたまま呟く。
「山が好きなんだ」
風がさらさらと二人の髪を揺らした。
その風も、足元に揺れる笹も、椎の木も、誰もが口々に囁く。それは彼女が抱いていた印象そのものだった。
「……そう」
呟いた返事が普通に聞こえたのだろう、彼はにこりと笑って「ああ」と彼女を見た。
間違っていない。
彼は死を欲している。
──それも、誰の記憶からも自分の存在が消え去るような、「完全な死」を。
- 185/323 -
[*前] | [次#]
[しおりを挟む]
[表紙へ]
0.お品書きへ
9.サイトトップへ