「あの女の人な、一年ちょっと前にダンプにはねられて運ばれてきたんだよ」
「へえ」
「それからずっと植物状態だったんだけど……」
視線を清史の方へ向ける。
「……なんでもあの旦那さんの身代わりになってはねられたみたいでね。あの人も随分辛そうでさ。……良かったなあ」
ぐず、と鼻をすすって老人はベッドに戻った。
清史の瞼の裏にはまだあの時の閃光が焼きついている。
全ての音を拒絶しようと──自殺しようと半ば衝動的に道路に飛び出した清史は、やってくるダンプカーをひどく穏やかな気持ちで迎えた。迫るヘッドライト。耳にこだまするクラクション。
そう、クラクションが聞こえた。
一瞬、清史の表情に驚きが表れる。それは本当に瞬間的なものだったが、あの轟くようなクラクションは確実に清史の中で響いたのだ。
もう一度、と無意識にあの瞬間を求める。
──もう一度だけ。
ヘッドライトの光が一層強くなる。否、強くなるのではなくその距離が間近に迫っていたのだ。運転手の恐怖に満ちた顔が目に入る。その足は必死になってブレーキを押さえているのだろうが、勢いのついたものが急に止まれることなど無い。
冷静にそんなことを考えていると、不意に強い衝撃が清史を襲う。
ああ、やってしまった、と思った。
ところが痛みはない。死とは痛みもないのかと思いながらも、頬が接する地面の冷たさは感じる。どうしたことかと瞼を動かそうとし、開けた。
開けることが出来た。
呆然と落胆する反面、自身の行動に呆れて微かに笑いがこぼれる。音から逃げようと思ったその瞬間に、声を聞けるとは。しかも今こうして体を起こしている間では、あの声は聞こえない。
皮肉な。
節々の痛む体をひきずって起きた時、支えを失った手が崩れて再び地面へ舞い戻る。力が抜けたわけではない。
清史は目を見開いた。
擦りむけた手の平に、明らかに自分のではないとわかる血が大量についている。
──そんな。
清史を襲った衝撃が体に蘇る。
車特有の硬さを伴ったものではない、どこか柔らかな感触。
倒れた体勢のまま首を巡らせて上を見る。
とろとろと流れてくる赤い液体の先に、横たわるその姿を。
「……すまない」
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