わたしの手だ。
 決して良いとは言えないその感触を、包帯越しの指はよく覚えていた。あるいは自身も腕を通していたからだろうか。敗戦色が濃厚になってきたあの時、何かを信じて身にまとっていた軍服を。
 だが、何を。
──うん、達筆だ。これなら願い事も叶いそうだな。
 満足そうに友人は頷いた。右手に持った紙が目の前に掲げられる。その中心に、確かに流麗な文字が文章を構成していた。
 平和が欲しい、と。
 誰もが知っていた。誰もがわかっていた。決して覆すことの出来ぬ状況にまで、自身の国が追い込まれていることを。
 だからこそ声をあげるべきだった。大儀の名のもとに押し隠された信念を呼び覚ませと。あの狂った時代に対し、例えその声がどんなにか細くとも、それが届く者もいたのかもしれなかった。
 だが、と目を閉じる。
 平和を願った友人にそうと言えなかった自分もまた、信じるべき何かを見失っていた。
 家から漏れる明かりが瞼を透かし、暗闇に微かな光を灯す。
 ああ、でも、と苦笑を浮かべた友人の顔が思い出された。何年経っても尚、彼の顔は年をとることを知らない。あれが最後に見た顔だった。
──曇り空じゃ神様もこっちまで手ぇ回らないか。
 星の見えぬ暗い空。いつ、その闇を縫って現れるかわからない敵機。人の存在を知られぬようにと建物から漏れる明かりはない。常ならば息を飲むほどに美しい天上の大河も、あの時ばかりは厚い雲の下だった。
 彼はこちらを振り向く。
──お前の願い事は?
「おじいちゃん」
 記憶の中のものとは異なる、幼い声が彼を回想から呼び覚ます。肩をびくりと震わせ、振り向いた先に嵐が立っていた。手には習字道具が抱えられている。
 思ったより深く思考を巡らせていたようだ。苦笑と共に孫の名を呼ぼうとした時、不意にその口をつぐむ。
 あの子は、どこを見ているのだろう。
 嵐の黒い瞳は祖父を通り越し、室内からの明かりでも払拭しきれない庭の暗がりに向けられていた。
 微かに眉をひそめ、もう一度その名を呼ぼうとする。だが一足先に呟かれた嵐の言葉に、再び口をつぐむ羽目となった。ただし今度は何かに気付いてではなく、驚愕によって。
「その人、お客さん?」

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