「風が吹いた日」



 指を動かして示す。

「悠季は知り合いの名前。それも本名じゃないんだけど」

「……とことん、こっちの世界とは話が違うんだな」

「そうかな」

 頬杖をついて喫茶店内に視線を向ける。九時をとうに過ぎて客の姿もまばらだ。

 カウンターで煙草をふかす男に、奥で新聞を広げる女、そして時々顔を見せる店員。こぢんまりとした喫茶店を見渡すのに数秒とかからない。

「澤地さんの話じゃないけど、そうして関わりたがる人間がいる限り、私たちと現実は無縁じゃないわ」

 朝の喧騒も街を通り過ぎ、営業か何かで動き回るスーツ姿が窓の向こうを横切る。

 いつしか車の中で感じた妙な感覚を思い出していた。

 自分たちはこうして向かい合って話しているのに、ガラス一枚隔てた向こうでは全く別の世界が展開されている。それはまるで舞台を見ているような錯覚に陥らせるが、全くの間違いなのだと、耳に届く音や感触を知るたびに気付かされるのだ。

 いつだって、誰かは誰かの舞台を見ているにすぎない。その舞台が人生という名の長いものなのか、瞬間という名の刹那的なものなのかは、誰も終わりを見届けることが出来ないからわからない。

 幕引きに差し出される手も本人のものであったり、他人であったり――今回のことを言えば、あちら側のものであることも無くはない。

 だから無縁とは違う。

――だから、澤地はあちら側を欲した。

「……澤地さんは、こっちが嫌だったと思うか」

 窓の外を眺めながらぽつりと呟く。丁はどうかしら、と言った。

「……寂しかったのかもね」

 そう、と相槌を打って少なくなったコーヒーを飲む。

 柵の向こうに見た澤地は、自分が取り得るもう一つの道の現れだった。

 あちら側とこちら側の境界をうろつくことは苦でしかない。どちらを見ても境界に生きる自分は異端でしかなく、空っぽな寂しさを味わう。

 苦でしかないと考えた末にあちら側に渡ろうと思えば、取るべき道はまさしく、澤地が辿った道そのものだった。

 悲しくないのは嘘になる。彼女の喪失は彼女の知らないところで大きな穴となって、これから先、ゆっくりと塞がれる日々を送るのだ。

 ただ自分は、と考えを巡らせた。

 自分は澤地の死を認めて納得した。富田のように受け入れることは出来ないが、少なくとも認める段階までに考えは熟成されている。

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