「風が吹いた日」
「……俺に持論を押しつけるなよ」
「大丈夫、大丈夫」
何が大丈夫なのかはわからないが、橘はけらけらと笑って手を振った。
「あんた、絶対お人好しだもの。狭かろうが自分で広げてくって」
「……は?」
怪訝そうに眉をしかめる嵐に、お人好し、と橘は繰り返す。
「いらないことまで背負いこみそうよね、あんた」
「そこまで許容範囲は広くない」
「だからお人好しって言ってんの」
早口に言い放ってコーヒーを口に含む。
どう返していいものやら考えあぐねいていると、橘は微笑した。表情豊かな顔をするが、どこか作っている感が抜けない。
「だって、さっきから話してるのに、私の素性には全くつっこまないんだもの」
無言で返してコーヒーをすすった。図星である。
澤地の件が終われば橘も赤の他人となり、そう関わりあうこともないと思っていたため、それほど詮索する気持ちもわかなかった。
後で聞こうと思っていた、などと取り繕っても所詮ばれる嘘である。完全に頭の外にあり、実際、言い当てられて言葉を返せないのだ。
視線をあさっての方向にやる嵐を見て、橘は口を開いた。
「鬼、と言っても角も牙もないけど。日本に古くからいる葵っていう鬼の一族があってね、私はそこの鬼」
人間、と言わないあたりに微かな壁が見える。
「でも、橘って」
「偽名。本名知られたらまずいから。ほら、忌み名ってあるでしょ。あれよ」
「ああ」
おぼろげな記憶を頼りに相槌を打つ。
忌み名とはそのままの意味を取れば忌む名前、死後に送られる贈り名とされるが、もう一つの意味合いも持つ。
普段、名乗る上での名前ではない、その者の本質をとらえた名前を忌み名と呼ぶことがあるのだ。
それは本人もしくは親、または親しか知らぬ名であり、忌み名を他人に知られることは決してあってはならないことだった。本質をとらえた忌み名は言霊の役割を持って、名前の持ち主に影響するからである。
極端な話、操れるという話だったか何だか、そこまで記憶ははっきりしていない。
かつてはあちこちにあった風習だが、今はもう廃れて久しい。未だ残る場所もある、という話を聞いたことはあれど、実際に持つ人間を目の前にするのは初めてだった。
「外での通し名は丁(ひのと)。甲、乙、丙、丁の丁ね」
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