「風が吹いた日」



「お客様の言葉を信じなければ、私どもも動けません」

 どうぞ、と言って先を促す。橘は安堵したように言葉を続けた。

「特に何があるってわけでもないんだけどね。何か、こう、いるみたいで」

 澤地はちらりと嵐を仰いだ。意見を求める目に答えようとした時、その動きに気付いたのか、橘が嵐に視線を向ける。

「あなたがどうにかしてくれるの」

 遠慮のない視線に居心地の悪さを感じながら口を開いた。

「ええ、まあ……何かいる、と思う場所はわかりますか」

 言いながらネクタイを少しばかり緩める。だらしないと叱咤されそうではあったが、そんな叱責に答えてやるような余裕もない。

 妙な感覚は重さを増していた。あちら側の者によるものなのかは見当もつかない。そもそも、こんな空気のような存在感を発する連中でもなかった。そこにいれば、すぐにそれとわかる気配も匂いも彼等は持ち合わせている。ならば橘によるものかと見定めようとするが、振り絞った勇気も微塵に粉砕された。

 黒い瞳に何が映っているのか、嵐にはわからなかったからだ。

 視線も体も意識もこちらを向いているのは明らかなのに、彼女の瞳だけが虚空を映している。それが今まで目にしたことのない怪物を見ているようで、嵐の警戒心は頂点に達しようとしていた。

 面倒、という言葉がぽつりと浮かぶ。この一言を口にしてしまえば肩の荷が下りそうではあった。事実、浮かび上がった瞬間、心が楽になるのを覚えたのだから間違いない。

 しかし、と澤地に視線を転じる。彼女を前にそのような言葉を吐くことはどんな暴言を吐くよりも恥ずべきことに思えた。それが彼女に対する尊敬によるものなのかは、嵐にも理解しかねたが。

 橘はわずかに小首を傾げ、全部、と呟いた。

「どこ、っていうのは無いわ。全部よ」

「……全部ですか」

 思わずもれた溜め息と共に言葉を吐き出す。橘はその口元に苦笑を浮かべた。

「どこ、って聞かれたら全部としか言えないわね。変なこと言っちゃったかしら」

「いえ」

 言いながら首を巡らす。視線が移る先々に神経を張り巡らし、どんな微細な気配でもつかみ取れるようにする。だが、それほど神経を研ぎ澄ますことでもなく、彼等を見ることが日常茶飯事化した嵐にとって彼等を見つけることは造作もないことだった。

 だからあの暗い隣室にもこのリビングにもいないとすぐにわかり、目指すべきは台所だったのだ。


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