「風が吹いた日」



 否、立ちふさがっているのかもしれない、と言った方が正しいのか。壁がある、という意識はあれど、その目には映らない。踏み出せば足を進めることは可能だが、その一歩一歩を壁が拒み、言うなれば凄まじい奔流の中を歩いているような感覚を覚える。

 エレベーターから出て、たった三歩進むだけで百メートルを走りきったような疲労感が押し寄せ、しかし視線を上げれば澤地にそのような兆候は見られない。

 自分だけか。澤地が自分を呼んだ原因がこれなのか、と察しをつけた時、不意に澤地が嵐を振り返る。

 途端に全身を拒み続けていた壁が消失した。

「……どうしたの」

 怪訝そうな澤地に短くいいえ、とだけ答えて先を促す。突如として軽くなった体に戸惑いを隠せず、暴れまわる心臓を抑えるべく深呼吸を繰り返すと、その後に続いた。

──何だろう。

 今までに感じたことのない圧迫感である。だが恐怖とも危機とも違った。

 純粋な拒否──そこには嫌悪も何も感じられず、嵐は混乱する頭をおさえられなかった。こんなことは初めてである。

 一人で考えを巡らせていると、その腕を叩く力があった。定まった焦点の向こうで澤地が心配そうな顔をこちらに向けている。

「大丈夫?何かあるの」

「……いえ、平気です」

 心配させまいという気持ちも強かったが、半分は事実である。疲労感は急速に後退し、嵐の身体は常態に戻りつつあった。

 先刻よりは顔色の良い後輩の言を信じたのか、澤地はそう、とだけ言うと、階の一番端のドアを指差した。

「あそこよ。角の部屋」

 採光のためというわけではなさそうな細長い擦りガラスからの柔らかな光に照らされ、灰色のドアがぽつりとたたずんでいる。一室が大きいこのマンションではその大きさにならい、玄関ドアの間隔も広い。

 だからだろうか、ひどく寂しげな印象を受けた。

 澤地はインターホンを押し、応答を待つ。数秒も経たぬ内に、それに応える若い女の声がした。口をインターホンに近付ける。

「お忙しいところ申し訳ありません。こちら、橘悠季様のお宅でしょうか」

 インターホンがはい、と答える。

「先日お電話させて頂いた開陽建設の者ですが、本日お客様のお部屋を拝見させて頂きたく参りました。お時間よろしいでしょうか」

 形式的な言葉の羅列に嵐は微かにうめく。自分ではこうはいかない。


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