「風が吹いた日」
「いつもはそういうの、うちでもちゃんと把握しておくんだけどね。今回は売り手さんが隠してたみたいで」
「ああ……まあ、仕方ないですね」
「事情はわかるんだけどもねえ。何せこの不況だし」
お金は欲しいものね、と嵐を振り返って笑う。
「高層マンションの一室だから、買い手さんも手放したくないみたいで。ちょっと信じられないわ」
呆れた風に言うが、嵐はその人間の気持ちもわかる気がするな、と心から同意することは出来なかった。
エレベーターに乗り、一階まで一度も止まらず進むという快挙に澤地は少しばかり嬉しそうだった。かなりの社員を抱える会社である。確かに珍しく、嵐もつられて嬉しくなるのを覚えた。
「ここから近いんですか」
広く明るいロビーを横切り、正面玄関の自動ドアをくぐる。社内では感じることの出来なかった風が狙いすましたかのように、二人の間を通り抜けた。突風に髪をおさえながら、澤地はこっち、と駐車場へ向かう。
「少し遠いかな。……あ、この車ね」
白い乗用車を指差して嵐にキーを渡す。澤地は免許を持っておらず、いつだか取らないのかと聞いたら周囲に反対されたのだという。確かに、この、のんびりした感覚で運転をされてはたまらないだろう。
慣れた動きで運転席に乗り込み、合わせて澤地も助手席に乗る。嵐に手伝いを頼む時、澤地は必ず行動を共にした。その膝の上にはあのノートパソコンが鎮座しており、嵐は苦笑をもらす。
「すみません。いつも」
シートベルトをしめていた澤地は何のことかと目をしばたかせ、そして言葉の先にあるものに気付いて「ああ」と声をあげる。
「いいの、いいの。いつも管轄外の仕事お願いしてるんだし。本当は不動産屋さんの方で何とかしてもらいたいのに、無理ってつっぱねられるとね」
「あまりいませんから。俺みたいなのは」
「貴重な人材ですからね。私がきっちり見守ってあげるわよ」
力一杯たたかれた肩から重荷が降りる。はつらつとしたその物言いは自然と嵐の顔をほころばせた。
澤地と行動を共にする時、嵐はノートパソコンを持たない。なけなしの反抗心によるものもあったが、大部分は澤地の「大丈夫」という言葉によるものが大きかった。パソコンで繋がれることを極端に嫌った嵐の心情を察したのか、それとも機械に慣れない後輩を哀れに思ったのか、澤地は嵐にパソコンを携帯させることはせず、それは彼女の部下にも同じことが言えた。
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