「風が吹いた日」
──犬でもないのに。
出先へも、このパソコンはお供する。会話でも出来れば楽しみもあるだろうが、生憎、そんな娯楽性に費やすだけの余裕はパソコンにも社員にも与えられていなかった。
パソコンを通じて逐一の報告を求め、そして指示をする。電話一つで済むものを、とも思ったが考えてみれば簡単なことである。どこでも仕事をしろ、ということだった。言い方を変えれば仕事の能率を上げるということになるのか。
再びキーボードに指を走らせる。このような文明の利器に、入社するまで出くわしたことのなかった嵐の指も、今や他の社員にひけをとらない。この技術と給料とストレスだけが会社で手に入れたものだった。
「頓道さん」
デスクと通路を隔てる壁の向こうから、女性社員が顔を出す。やや老けた顔にほんのりのせた化粧はその顔を若く見せ、上品な印象を与える。嵐が入社時から世話になっている社員で、澤地芳子と言った。
「はい」
「ごめんなさいね。また、いい?」
彼女の言う「また」に察しがつき、嵐はパソコンを閉じてそれに応じた。
「富田さんには話通しておいたから」
富田は嵐の上司にあたる。立ち上がってちらりと視線をやれば、禿げあがった頭の下からこちらを窺い見る細い目と視線がかち合った。慌てて視線を逸らすあたり、上手く話が通っているとも思えない。その様子を見ていた澤地が苦笑をもらす。
「プライドが高いのよね、あの人。自分の部下は自分が動かさなきゃ気が済まないみたい」
嵐も苦笑で応じた。
入社時は一緒の部署だった澤地も昇格と共に異動となり、ところがこうして嵐に手伝いを頼むことがある。仕方のないこととは言え、部署を越えた人材の貸し借りは確かに、あまり良い顔はされないだろう。
だが、嵐はこの時間を楽しみにしてもいた。いい先輩である澤地とは気心が知れているし、なんにせよ、嫌われていると嵐が自覚するほどにあたりのきつい富田から離れられるのであれば、むしろ何でも良かった。
歩きだした澤地の後に続き、部屋を出る。いくらか空気の流れを感じることが出来、嵐はネクタイを少しだけ緩めた。
「今日は何ですか」
「うん、ちょっとまた出てもらいたくてね」
「じゃあ、もう売買されたものに?」
「そう」
憂欝そうに言う。
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