手記



 様々な現象について悩むのに疲れていた私は、とにかく十一日間家に籠り、外からの誘いに決して乗らないという、惰性と化した習慣へなだれ込むしか出来なかったのである。斟酌する手間が省けた分、疲れることもないというだけの話だった。
 母の声はたっぷり一時間続いた。もうそれだけで、私は以降の二日間にどんよりとした気持ちを抱かずにはいられず、案の定、最終日にかけての接触によって私は全く眠れなかった。
 オカルト系の話では定番のラップ音、ただしこれは室内ではなく外から聞こえるものだった。勿論、外とは隣室からのものも含む。およそ、隣人が出しているとは思えない音まであり、それは昼夜を問わなかった。この頃、隣人の訪問はぷっつりと途絶えており、それどころか彼が外へ出ている雰囲気も窺えなかった。病気なのか何なのか、この流れで言えば尋常ならざる状況が予想出来るものの、私は外へ出ることが出来ない。壁越しに祈りを送ることしか出来ず、それが効果をもたらしているとは決して思えなかった。
 母の声は残りの二日間にも訪れた。それも一度や二度ではなく、期限の日に迫るにつれて場所も問わなくなり、ベランダからも聞こえるようになっていた。カーテンをひいたベランダの向こうからそれが聞こえてきた時、私は二晩の徹夜を覚悟して電気を点けた。そのまま眠ってしまおうと思えるほどの不敵さは失われて久しく、それまでの出来事で疲弊しきった心にはちょっとした想像だけで参ってしまう脆さが現れ始めていた。
 暗い部屋、外からの光によって、もしカーテンに何者かの姿が映りでもしたら。それがもし、人の形ですらなかったとしたら。私は平静でいられる自信がなかった。
 ラップ音、いもしない母の声──それだけで充分堪えるものを、最終日にはそれらがないまぜになり、音の奔流となって部屋を囲んだ。音だけで部屋が揺れるのを感じ、私は身の置き場を探して、結局トイレに落ち着いた。外から完璧に隔離され、音もそれほど聞こえない。
 そこで、私は十一日目を過ごした。
 勇気を奮い起こして、昼間の一瞬だけ台所にスナック菓子とペットボトルの水、そして食卓塩を取りにいった以外は全てトイレの中で過ごした。笑ってくれてもかまわない。私はそれだけ怖かった。
 睡眠不足と疲労の合わせ技で、まともな思考が出来なくなっていたというのもあるだろう。
 ただ逃げ、部屋にこもり、全てが過ぎれば元の生活に戻る。そうしたら野菜たっぷりの食事をとり、布団でゆっくり眠りたい。何ものにも脅かされることのない、かつて自分が持っていたはずの「日常」を全て取り戻す。それだけが、私の心を支えていた。
 昼を過ぎ、夕方を迎えた頃になって音がぴたりと止んだ。段々と小さくなるのではなく、一瞬で止まったのである。騒々しさに慣れてしまった私は、その静寂にむしろ驚いた。これが普通であった、ということを忘れかけていたからかもしれない。
 静寂が室内を埋めるのに時間はいらず、それでも私はトイレから出るのにたっぷり一時間はかけた。妙な気配はないか、変な音はしないか、それを入念に確認し、うっすら扉を開けて様子を窺う。

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