「逆人形」
とんとん、と軽快な足音がする。早いなと思い顔をあげるが、翔太が入ってくる様子はない。気のせいかと本に顔を戻した時、また同じ足音がした。
――誰かついてきたかな。
嵐はどうやらそういった体質のようで、以前にも自宅に何人か連れてきてしまったことがある。見境がないその体質には辟易していたが、どうにかしようという気にもならなかった。彼等は嵐に危害を加えないからだ。
恐怖心など微塵も抱かず、声を張り上げる。
「誰?」
答える声はない。当然のことだが嵐は溜め息をついた。これからという時に邪魔が入るのは嬉しくない。
代わりに足音ばかりが聞こえる。耳を澄ませばそれは行ったり来たりを繰り返しており、それもそう長くない距離を往復しているのだとわかった。
そろりと立ち上がって本を置いた時、本の上を影がよぎった。視界の端でそれを捕らえた嵐は素早く辺りに視線を巡らす。部屋には何もいない――そう、部屋には。
影は障子窓の外にあった。ただしとても奇妙な格好で、障子窓をよぎる。
思わず嵐は息を飲み込んだ。オレンジの光を横切る影は確かに人が歩く姿だったが、逆さになった足だけが往復している。
誰か逆立ちをしているのかとも思ったが、それにしても足はしっかり開いて歩いている様相を呈していた。いくらバランス感覚の優れた者でもこれほど自然に行えるとは思えない。
障子窓に手を伸ばしかけた時、悪寒が背中を走った。それを悪寒と言うのか、寒さとも違う、体の底から粟立つような気配が全身を駆け巡る。
それは本能的な忌避感に近かった。
初めて抱く感情に戸惑う嵐を嘲笑うかのように、逆さになった足は尚も往復を続ける。右左へ行く足の動きを目で追いつつその場から動けない。文字通り、縫い付けられたように足が重かった。
しかし心ばかりがそこからの退避を命じる。
心と噛み合わない体に冷や汗が浮かびだした時、不意に緊張が緩み、すう、と音をたてて襖が開いた。その向こうでグラスの乗った盆を持ち、翔太が驚いたような表情で嵐を見る。
「どうしたの?」
全身から力が抜けた。危うく倒れそうになるのを踏み止まり、ちらりと障子窓に目をやる。影も何者の気配も消え失せていた。伸ばした手は抵抗無く障子窓にかかり、ゆっくりと開ける。椿を中心にこぢんまりとした庭が広がっていた。
再度問われ、怪訝そうな翔太に嵐はなんでもないと言って微笑む。
頭の中で庭の風景を思い起こしながら。
――そこには人が通る廊下も何も、ありはしなかった。
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