Piece23



 だが、ギレイオにはそのどれも遠くのことのように思えた。ギレイオが知覚出来るのは炎の熱さと、首を締め上げる母親の指の冷たさであり、その両方が段々と思考を蝕んでいくのである。
 ごめんね、としきりに謝りながら締め上げるウィリカに向けて、ギレイオは手を伸ばした。
──謝らないでほしい。
 しかし、体はしびれて腕に力が入らず、視界は段々と失われていく。ウィリカの顔に触れようにも宙を掴むばかりだった。
「や……て……」
 まだ息があるとばかりに、ウィリカは力を更に強くした。
 助けは来ない。ホルトは炎の壁の向こうで声を張り上げるが、そこを越えられるだけの体力が彼女にはなかった。外にいるであろう人々の声も、ギレイオにはもはや遠い。
 ギレイオは無我夢中で手を動かした。華奢な姿からは想像出来ない力でウィリカはギレイオを押さえつけていた。馬乗りになったせいもあるだろうが、意志の力が強く物を言っているのだろう。成長したギレイオでさえ、自由になるのは手と五感だけである。
 動くたびに息が乱れ、段々と喉の奥へ届く空気の道筋が細くなっていく。
 どうして謝っているのか、自分は謝られなければならないようなことをしたのか。産まれてきたことそれ自体が、そんなに悪いことなのだろうか。
 頬を涙が伝い、道半ばで蒸発する。
 ギレイオはどうしたらいいのかわからなかった。ここで抵抗をやめれば、母親は安心してくれるかもしれない。
 だが、と、ぼやけた視線の先で見える二つの穴に、ギレイオは恐怖した。ディコックの葬儀の時と同じ、それは再び同じ色をたたえてギレイオの前に現れたのだった。
 底の見えない穴を覗き込んでいるようで、距離感さえ失わせるそれはギレイオの意識を吸い込んでいく。それは朦朧とする意識にさえ圧倒的な恐怖心を植え付け、ギレイオは狂ったように腕を振りまわした。
 ウィリカはギレイオなど見てはいない。こうして首を絞めているギレイオすら、そしておそらくは、産まれてから今に至るまで一度たりとも、彼女は「息子」を見ようとしたことがなかったのだろう。
 では、彼女はどんな気持ちでギレイオと接していたのか。話し、笑い、庇護の対象として無償の愛を注ぎ続けた心の内実とは何なのか──その奥でひた隠しにしてきた狂気こそが、彼女の真実だったのではないのか。
「……はな……」
 ギレイオはもがき、風が鳴るような音を立てて荒い呼吸を繰り返す。未だ息絶えないギレイオの抵抗にたじろいだウィリカは瞬間的に体を浮かし、辺り構わず掴みかかっていたギレイオの手が偶然にも彼女の腕を掴んだ。
 酸素の足りない頭を段々と真っ白な虚無が蝕み、思考する力を奪っていく。それでも、掴んだ掌ごしにウィリカの動揺が伝わった。
 それは、ギレイオに対する圧倒的な恐怖だった。
 全身全霊をかけて拒む心と、それを制してまで殺そうという決意がウィリカの中でせめぎあい、しかし、結果として現れた純粋な力はギレイオの首を締め上げていく。どうあっても、ウィリカの中にはこの手を離すという選択肢はない。
 もう見たくない、とギレイオは願った。
 あの優しい母親との記憶があればいい。父親の思い出があればいい。ホルトとの会話が残ればいい。
 こんなに恐ろしい顔で呪詛を吐く母親から逃れたい。自分がどれだけ憎まれ恐れられた子供だったのかを、何度も思い知らせるようなことは聞きたくない。暗闇を落としたような虚ろな目など見たくない──見ないでくれ。
──ここから消えさせてくれ。
 ギレイオは砂の流れるような音を聞いた。



Piece23 終

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