058.ブラックコーヒー


 待っている、と言った。あの人の耳にはしっかり届いたのだろうか。けんか腰の応酬の後、乱暴にドアを閉めて出て行った彼の耳に。

 窓際にコーヒーテーブルと椅子を寄せて、そこに座る。小さなコーヒーテーブルの上にはぬるくなったブラックコーヒーと、一輪挿しに飾られたユリがあった。きつい匂いが合わさって、到底、コーヒーの匂いを楽しむどころではない。だが、このミスマッチさが好きと言った彼につられて、いつの間にか自分も好きになっていた。

 まるで彼と自分のようだと。

──いったい、どちらがユリだろうね。

 冗談交じりに話していた。美しく、白い輝きを放ち、清楚な佇まいを見せながら濃厚な香りで人を誘惑するユリの花──人の血肉のようだ、と言った自分に彼は笑った。たぶん、君はコーヒーだ。それなら、あなたがユリの花ね。

 自分はユリの花が好きだった。隣でどんなに強い香りを放とうとも、己を見失わない自信はあった。

 だが、彼にはその自信がなかった。だから、この部屋から出て行ったのだ。

──いいのよ、って言ったのにね。

 コーヒーの香りに乗って、甘ったるい匂いが体を取り巻く。それだけで彼と一緒にいるような気分になった。新しい名前をつけるとしたら、どんな名前がいいかと、笑いあって話していたのはいつだったっけ。

 彼と話すのは楽しかった。生きている世界も、身を置く時間の流れも違う彼とどうして惹かれあったのかは、お互いに秘密にしている。その方が想像が膨らんで、いつも楽しい会話が出来るから、と提案したのは自分だ。それでも、彼が彼自身の大きな秘密を明かしてくれた時には少しだけ嬉しかった。

 どんな秘密があっても、自分はどこまでも彼についていける。その確信があったから、新しい名前をつけてほしいと望んだ。しかし、肝心なところで彼は怯み、喧嘩になったのが昨日の夜。

 大事に守りたいから、牙を突き立てたくないと泣いていた。守りたいなら、私もそちらの世界に入らせてと怒鳴った。それだけはしたくない、と項垂れていた。

 だから、出て行った。自分をその牙にかけるようなことになる前に、そうしなくて済むような「保険」を得るために。

 「保険」を得るのにどれだけの時間がかかるかは、わからない。そんなものは見つかりっこないと思う。その「保険」こそ自分であり、だから彼と惹かれあったのではないだろうか。

──待っている。

 このテーブルに毎日ユリを飾って、ブラックコーヒーを淹れて、二つの匂いを絡ませてあなたを待っている。

 そっと、カップに口をつけた。



終り

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