052.苺を一粒
目覚めには沢山の労力を要する。
寝ている間も体力は緩慢に消費されているというのだから当然だろうが、この特殊な体質の前には尚更だろう。
だから目覚めて最初の食事は特に慎重にならざるを得ない。
慎重に慎重を重ね、体力があり純潔で、ほどよく脆弱な人間が一番だ。起きたばかりはそれほどの腕力も見込めず、下手をすれば獲物に抵抗されてこっちが危険に晒されかねない。
だから、もっと慎重になるべきだったんだ。
「何その青白い顔。不健康ねえ」
皺の刻まれた頬は血色が良く、はい、と苺を一粒差し出してくる。
真っ赤に熟れたその一粒は今の自分には何とも魅力的だ。だが、そこから漂うのは果実が持つ甘く芳しい匂いばかりで、自分が望むようなあの鉄臭い香りは全く感じられない。
人ならば「まあ美味しそう」とか言ってつまむんだろうな、きっと。生憎、人じゃないから唾も出ないし、空腹な腹が苺を求めることもない。
「食べないの?美味しいのに」
そう言ってヘタを取り、口に放り込む。その指は過酷な農業ですっかりひび割れていた。働き者の手ってこれを言うんだろうな、自分の手は生白く綺麗なものだが。
夜の帳が下ろされたのを見計らって獲物を探しに出たところまでは良かった。道端に座り込む人影を見つけ、更には酒に酔っているようで熟睡しているとは何とも幸運なことだと思った。抱えてみればおそろしく軽いのだから、これは儲け物だと喜んだ。
俯いた顔を覗き込むような用心深さは酒の匂いで吹き飛んでいた。
自分は森の中で使われなくなった狩猟小屋を住処としている。人の手が入らなくなって数年経ち、屋根が崩れ落ちてそこから月明かりが射し込むのを見るのが好きだった。だから手入れもしていない。ボロはボロのままだ。
月明かりは目覚めた瞬間が一等に美しく感じる。冷たい明かりは何者も寄せ付けず、いつ目覚めようとも変わらないからだ。
仲間が不変の美しさがどうのこうのと言っていたが、それってこういうことを言うんだろう。
夜目の利く両眼に明かりは必要ないものの、自身の嗜好の関係で住処には明かりが射し込む。
だから、獲物をよく確認しなかったツケをここで払わされる羽目になったというわけだ。
なんてことだ。
処女どころか老婆だなんて。しかも酒臭い。
大方、仕事終わりに酒場へ寄って、酒を沢山あおった結果、あの道でとうとう意識が飛んだのだろう。スカーフで覆った灰色混じりの髪がいくらかほつれている。年甲斐もなく無茶をするのを「年寄りの冷や水」と言うんだっけか。
籠一杯の苺を食べながら、老婆は臆することもない。精一杯の威厳や恐怖を保とうとしても、獲物の調達に失敗したという敗北感ばかりが勝って頭を抱えるしかなかった。
「あなた、吸血鬼ってやつよね、そうでしょ」
一通り小屋を見渡した老婆が勢い込んで尋ねる。頷く気力もなかったが、傍にある棺桶を見て、隅に寄せられた骨の数々を見れば何となく判断はつくだろう。ここには吸血鬼の伝説が根強く残っているのだから──それも自分の。
「ほんとに年を取らないのねえ。若いままって羨ましいわ。それもやっぱり血を飲むからなんでしょ?血ってどんな味がするのかしら、わたしたちが感じるような鉄臭さっていうの?ああいう感じ?それともお酒みたいな味わいなのかしらね」
べらべらとまあ、よく喋るものだ。本当に年寄りなのだろうか。
「棺桶で眠るって話に聞いてたけど、わたし信じてなかったのよ。両親や夫にもさんざん言われたけど絶対譲らなかったのよね。吸血鬼だってベッドで眠るものよ、って。帰ってごめんなさいって謝っておかなきゃ」
この年で両親が健在とも思えないが。ようやく口を挟む隙を見つけた。
「……無事に帰れると思ってんのかよ」
「あら、吸血鬼って処女の血がお好みなんでしょう。こんな婆の血なんて美味しくないわよ。多分わたしの血はお酒臭いでしょうし」
「キリストの血はワインだって?」
茶化すつもりで皮肉を込めて笑う。老婆はふふ、と笑って返した。
「吸血鬼にしてはよくご存知だこと。聖女の血はミルクなのよ。でも比喩や揶揄ではなく、わたしの血は酒臭いと思うわよ」
「そりゃそんだけ臭けりゃな」
今だって口から漂う酒臭さに閉口する。苺の甘い香りも混じって何だか訳がわからない。やたら利く鼻も困りものだ。
確かに、この匂いを嗅ぎながら食事というのはいただけない。
「そうね、でもまだ臭くなるかもしれない。今日は帰ったら祝杯をあげるつもりだから」
──まだ飲むのかよ。
うんざりして顔を背ける。少しでも鼻を老婆から遠ざけたかった。
すると、老婆は思いがけず穏やかな顔になる。
──おや?
「今日は本当に良い日だわ。こうしてこの小屋がまた誰かに使ってもらっていることがわかって」
言いながらほつれた髪をまとめ始める。
そうか、帰るのか、さっさと帰ってくれた方が今はありがたい。
獲物を間違えただの逃がしただのという汚名はこの先心配すればいいことで、今はこの曲がりそうな鼻を清浄な空気の前にさらしたかった。
「わたしはマリア=バーネット。血を飲むなとは言わないけど、程々にしてちょうだいね。この村の若い娘さんは大事な財産なんだから」
マリアはそう言うと、ゆっくりと小屋を出て行った。話している間に酔いも醒めたらしい、足取りはしっかりとしている。暗い道のはずなんだが、この小屋を知っている口振りだから道も知っていたのだろうか。
──しかし、マリアとはね。
目覚めて早々の獲物が──間違えたとは言え、自分にとっては獲物でしかなく──あの聖女の名前とはどういう因果か。酒臭い聖女とは、冗談にしてはきつい。
マリアの座っていた椅子の上で苺が月明かりを反射している。その赤が異様に目を引いた。持って帰らなかったのか。
「……バーネット」
マリアの姓を口にしてみる。はて、どこかで聞いた名だが。
未だ残る酒の匂いを掻き分けて、ようやくといった体で残る机の引き出しを探った。その指先に当たるものを見つけ、取り出してみる。
──イゴール=バーネット。
ぼろぼろになった革の装丁に刻まれた金字が、日記の持ち主であった者の名を告げる。住処として使う時に家捜しした際、見つけていたのを覚えていたのだろう。よく覚えていたもんだ。
──この小屋がまた誰かに使われていることがわかって。
マリアの声が蘇った。
「……」
この小屋の持ち主はもういない。彼がここに来た時にはもう、死んでいたように思う。野犬か狼にでも襲われたのか、随分食い荒らされてさすがに見るに耐えず、ここを住処に決めて最初に行ったのが死体を教会に持っていくことだった。
死人の処理は教会の専売特許だろう。自分がすることじゃない。それにしても随分と殊勝な真似をした覚えはあった。
──あれの妻か。
ふと、鼻の先を苺の甘い香りが駆け抜ける。そんなに嫌なものではない。
手に触れる革の感触を確かめ、ぼろぼろの日記のページをゆっくりとめくってみた。
獲物を探すのは明日からでいいだろう、と、ページを繰る。
終り
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