045.雷鳴遥か


 ハリケーンが近づいているらしい。それも巨大なハリケーン。

 こんな時は仕事などせずに大人しく家に閉じこもり、どうせ買出しにも行けないのだからありあわせの冷凍食品で食事を間に合わせ、ワインをお供にジャズでもかけて読書にふけるのが良いに決まってる。そうだ、それが健全なハリケーンの待ち方というものだ。

 タカミネは目の前のカルテにじっとり視線を落とした。

 もう必要のないカルテ。数々のオーダーと投与を支持する伝票が添付された、随分と手に馴染んだカルテだった。

 今日の未明を最後に、そのカルテが使われることはなくなった。

 親族に説明する必要もない。カルテの主の家族は五日前の玉突き事故で全員死亡した。

 当のカルテの主はそれから昨日の朝に至るまで狂ったように泣き通して昼には魂が抜けたようになり、夜に容態が急変、今日未明にその魂は本当に体から抜け出てしまった。

 患者と仲の良かった看護師のアカシはしばらく姿を見せず、昼前になって目を真っ赤にして戻ってきた。誰も、問うことはしなかった。

 自分は、というと妙に虚脱して悲しむ気力もない。ただ疲れて、シャワーを浴びて泥のように眠りたい。

 これでも五年目だ。医学生から研修医、医師、今は数少ないスタッフドクターとして日々奮闘している。

 新米医師の面倒を見て、カルテをチェックし、診察し、急患を診て、時々思い出したように食事を取る。泣く暇もないが泣くつもりもない。

 そんなのは甘えだ。患者を助けられなかった自分を悼み、死んでしまった患者を悼み、愛する人を失った人を悼む涙にタカミネは意味を見出せなかった。

 死は必ず来る。どんな人間にも恐ろしく平等に。それが早いか遅いかの問題で、どれだけ遅く、どれだけ苦しませないかが医者の仕事だ。

 それを思えばハワードはよくやった。助かる見込みもなかった少女に対して、監督する側の自分がやった事と言えば「ベッドの空きがない」と忠告しただけだった。彼女の死期を悟った家族の行動に対して自分がした事といえば、ただ黙って会釈しただけだった。

 いつから、自分の手はこんなにも小さくなってしまったのだろう。カルテを膝に置いて両手を見る。長い指先が握るメスに助けられた者も、助けられなかった者もいた。昔はその数を気にしていた頭も、いつしか病院管理費の帳簿やスタッフの采配などで忙殺されてどこかへやってしまった。今ではどれだけ助けたのかわからないし、その度に喜ぶこともない。

 医学への情熱に溢れていた頃の自分の方が、よっぽどこの手が大きかったように思う。

 何かを掬い取るように合わせた両手の平に、一体どれだけの命を「救い」取ることが出来るのだろう。あの大きかった手の平はどこへ行ってしまったのか。

 ハリケーンが近づいているらしい。

 誰もいない処置室の窓の外からは陽光が消え、卵色の空に灰色が混じって鬱蒼とした影を地上に落としている。風も先刻から強まって太い木を揺さぶりだした。病院へ向かう人々が揃いも揃って髪や帽子を押さえている。

 タカミネは眼鏡をかけ直した。

 ハリケーンが近づいているらしい。それも巨大なハリケーン。

 その名はイオラーナ。奇しくもそれは、先頃亡くなった少女の名前と全く同じだった。何の因果か、それとも神の嫌がらせかわからないが。

──だが、いいだろう。

 雷鳴遥か、彼女は地上へ爪痕を残しにやって来る。

 この、命を救うにはあまりにも小さな手の自分を笑う、雷鳴が遥かに轟く。



終り


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