002.君から卒業
そこは、そんなに明るくない。白熱灯で照らされ確かに明るいが、白い光は少し冷たく感じる。
長い廊下は濁った緑で、クリーム色ならどんなに明るいか想像してみたら、白熱灯とあいまってただ眩しいだけなのだとわかった。
隣の部屋はいつも騒がしい。テレビのチャンネル争いかご飯のおかずの争奪戦か。夕方辺りになると聞こえてくるそれを、少しだけ楽しみにしていた。
外の光が白い、昼間に運動に出るが、焼けつく光はただ痛いだけで、夕方の黄色い光の方が良い。
働いて物を作るのは楽しかった。しかし空調の効きが悪く、作業着内に体温がこもって暑い。そんな時に、仲間と浴びるシャワーは格別だった。
ある時、部屋の角で日記を書いていると、同室の男が声をかけてきた。
「日記なんかつけて楽しいか」
「あなたは楽しくないんですか」
「三日で飽きる。それにな、後で読み返すと恥ずかしいだろ」
「そういうものですか」
「あとはな、嫌になる。これだけ書いたのに、まだ書くのかと思うと」
「じゃあ書いた事あるんですね」
男は一瞬懐かしむ様な顔を見せて、そして笑った。
「初めの三年はな。書いたさ。だけどいつだったかな、蝉が鳴き始めた時か、あと何回ここで蝉の声を聞くんだろうと思ったら」
飽きた、と男は言う。あの、ともう少し聞いてみようと思ったが、果たして聞いていいものか迷った。
──あと何年残っているんですか。
男には、わかったのだろうか。
にこりと笑って袖を捲る。
「お前より長いよ。まだまだだ」
「綺麗ですね、その花」
「牡丹の花だ。うん、おれの持ってるものの中で一番綺麗なんだ」
「虎とかも居たんですか」
「消した。しっかり彫ったから跡残ってるだろ」
ほら、と言って腕を出す。触れると点字の様なでこぼこが、何かしらの形を作っているのがわかった。
「ああ、本当だ。見てみたかったな」
牡丹がこんなに美しいなら、きっと虎は勇壮な美しさに違いない。
「だめだめ。お前はこんな所に来る奴じゃないよ」
「そうですか」
「ああそうだ。早いとこ出て行きな」
それから一ヶ月ぐらいで、そこを出られる様になった。
嬉しくないわけではないが、あの時少しだけ話した男と離れるのは、少し、寂しかった。
それを言うと、彼は豪快に笑った。
「出て行く奴にそんな事言われたかねえや。早く行け」
「出たら教えて下さい。また会って話したいです」
「よせよ。んな約束忘れちまう」
「忘れますかね」
「忘れる、忘れる」
荷物をあさり、日記を差し出した時、男はきょとんとしていた。
「これを渡しに来て下さい。ページの一番最後に、俺の電話番号が書いてあるんで」
「おれに渡して良いのか」
「牡丹が綺麗だったから良いんです」
男は立ち上がって自分の荷物をあさると、中から茶色の装丁の本を出してよこした。
「おれの日記。男と交換日記なんて気味悪いが」
「面白いですよ」
「卒業証書代わりにやる。二度と戻るなよ」
そうして今日、ここを出る。
濁った緑色ともさようなら。
白いだけの白熱灯ともさようなら。
蒸し暑い工場ともさようなら。
冷たいドアともさようなら。
そして卒業する。
二度とここには戻らない。面白い友人が出来たこの刑務所に。
五枚目の卒業証書を持って。
さようなら。
今日、俺は君から卒業する。
終り
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