026.薄桃色の指先
タン・タン・タン
暗いホールにこもった音が響く。
消音装置をつけたピアノからはこんな音しか聞こえてこない。もっとも、とうに耳も遠くなり補聴器無しではろくに音も拾えないのだから、あまり変わりはない。
意識下に残る音の残滓を、耳の奥に呼び起こしてみた。
近所の迷惑になるからと夜遅くに練習は出来ず、どうしても練習しなければならない時のみ消音装置をつけて練習していた。
すると指先から奏でられるのは澄み切った声ではなく、ピアノは鼻のつまった歌手のような歌い方をした。
しかも消音装置を使うといつもより力が入る。消音、と言うだけあって音は格段に小さくなる。フォルティッシモのところも頑張ってフォルテになるぐらいだ。
力の入らなくなった指先は日常生活においては支障をきたすが、ピアノを前にすると自然と力が蘇るのだから不思議である。体が覚えているのだろう。
軍隊ポロネーズは弾ける?
レのところで彼の声が蘇る。若く、張りに満ちたよく通る声。彼は声楽を学んでいた。
あれ好きなんだよね。タン・タタタンタンって何だかステップ踏めそうじゃない?
踊れるの?
いいや。音楽を学んでいるわりにはそういうリズム感は皆無でね。フォークダンスも踊れない声楽家はぼくだけだと思うよ。
そうね、あまり聞いたことないわ。
だろう?天然記念物。触っとくと良いことあるかもしれないよ。
初対面でそれはやめておくわ。それで御所望は軍隊ポロネーズ?
手厳しいな。軍隊ポロネーズはうけなかったかい?
どうして。
ぼくは下心大有りで君に声をかけたんだよ。それで咄嗟についた言葉が軍隊ポロネーズ。プロポーズみたいじゃないか?語呂が。
それはうけないわね。第一、初対面でそういうことを言う男になびく女なんていないわよ。
そいつは困った。
そう言うわりには笑っている彼の顔を、どうしてこんなにも鮮明に思い出せるのだろう。私は別の人と結婚したというのに。
皺だらけの指先。薄桃色の若さに満ちた指は、あの頃の思い出と共に去っていった。
フォークダンスも踊れぬ声楽家は、結核で亡くなったのだ。
以来忘れていた彼を、今になって思い出す。老人ホームの大きなグランドピアノを前にして。夫を亡くした痛みを後にして。
消音装置を外し、指が鍵盤の上を走る。澄んだ美しい音が真っ暗なホールに響き渡った。
ただし跳ねるような曲ではなく、ゆっくりとさざ波のようにやってきては去り行く、ふわりと膨らむ曲。彼と初めてセッションした曲。皺だらけに見えた指先にほんのり赤みがさし、張りが蘇った。
──もう一度、あなたとセッションしてもいいかしら?
それじゃあお近付きの印にぼくのために弾いてくれないか。
普通、逆じゃないかしら。君のためにぼくが弾くって。
ピアノに関してはど素人もいいとこだからね。ぼくの武器は声だから。
いいわ。なら御所望の軍隊ポロネーズでも。
ああ、それはもう少しお近付きになれたら頼むよ。そうだねえ、夏も間近、日本人といったらこの曲の海の歌なんてどうでしょう?
明日浜辺の、の方?
海は広いな、の方。未来の声楽家とピアニストの世紀のセッションだ。観客がいないのが惜しいけれど、まあいいか。ぼくの声に負けるなよ。
それはどっちかしらね。
言ったな。よし、発声練習はすっ飛ばすぞ。
準備はいいかしら、未来の声楽家さん。
いつでもどうぞ、未来の花嫁さん。
終り
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