第三十章 暁の帝国



 手も足も動かない。濡れた体を温めるのと、疲れを少しでも軽減させる名目で僅かな沈黙が訪れる。

 雲の晴れた空は青く、その中で白い太陽がこれでもかとばかりに陽光を注ぎ続ける。太陽で温められた砂も、頬を撫でる空気も穏やかで、冬も間近な季節とは思えない。暗い海の底と比べれば天国のような味わいだった。

 二人が寝そべる砂浜には波の音が響き渡り、一瞬、これまでのことが全て夢なのではないかという錯覚にとらわれる。

 だが、握り締めた左手は砂を掴み、指に鞘が当たった。砂とは違った硬質な感触が、現実へと引き戻す。

 砂を払い、アスは左手を掲げてみた。その動きに気付いたライが顔をこちらへ向ける。

「……消えたな」

 静かな声にアスは苦笑した。

「痣は残っちゃったけど。どうせなら痣を残さないようにしてほしかったなあ」

「本当に刻印だったわけだ。……痛むか?」

 アスは頭を振る。

 左腕を取り巻いていた黒い刻印は綺麗さっぱり、消えうせていた。後にはただ刻印があったことを思わせる痣のみが残り、アスを悩ませていた声も聞こえない。頭の中は静かなものだった。

「こんなに静かなのは久しぶりだ」

「……混沌がやったのか」

「多分」

 掲げた左手を下ろし、両目を覆う。太陽で温まった手からじんわりと温もりが伝わった。

「……生きろと言われた気がする」

 隣でライが小さく息を吐いた。

「言ったように見えたけどな、俺は。こんな所で死ぬんじゃない、って」

 手を軽く上げてライを見ると、彼は横目でちらりとアスを見て、笑みを浮かべた。

「でなけりゃ、こんな贈り物もしないだろ」

 そうだね、と答えてアスは手を砂の上に下ろし、首を巡らせる。

 様相は変わっても、育った場所の匂いや空気を忘れるはずがない。

 頭上へ目を向ければ、そこには過去において賑わった港の船着場が顔を覗かせ、その遥か向こうには倒壊した建物も多いものの、慣れ親しんだ街並みが見えた。古びた漁港、綱を結ぶ柱、どれも懐かしい。

 海の底から再び太陽の下へと現れた故郷に人影はなく、ともすれば幽霊の一つでも現れそうなほど荒れ放題の姿を晒しているが、人が戻るのもそう遅くはない気がする。

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