第三十章 暁の帝国



 海は、ただ静かに黒い体を波打たせ、その時を待つばかりだった。


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 飛び込んだ先は、以前落ちた川よりも冷たさが厳しく、多方面からくる波の動きに体が翻弄された。それでも体を持っていかれなかったのは、大柄なヘイルソンがいるお陰だろう。一緒に行く、と言った通りにアスは彼の体を離そうとしなかったし、彼もまた、アスを離そうとはしなかった。

 段々と感覚の失われる手から抜けていこうとする力を何とか留めている状態で、二人の体は飛び込んだ地点からあっという間に沖──『器』で言えば中心部へと流されていた。

 『神子』が入ればこうなる、という結果は聞いてきたが、過程は全く予想出来ていない。全て想像の範疇外にあることで、こんなにも過酷だとは思いもしない。

 口の中に溜め込んでいた空気が、波にあらわれながら、少しずつ奪われていく。水への恐怖は克服したつもりだが、この様子ではまた恐怖が植えつけられてもおかしくはない。

 最も、生きて戻れればの話だが。

 皮肉に考えた瞬間、ヘイルソンがアスの体を掴む手に力を込めた。彼に水の脅威は関係なく、しかし、海に飛び込むこと自体初めての経験なのだろう。自らを守る術を執り行うことすら忘れて波に飲まれるままになっていたが、初めて、彼の目が何かを捕らえるのを見た。

 空気の泡と共に逃れようとしていた意識を取り戻し、ヘイルソンの視線の先にあるものを見る。

──黒い。

 角度によって数多の色彩を伴っているように見え、黒や灰色などの印象は暗い海の底にあるからだと察しがつく。

 元は街であった水底で、実体のはっきりとしない影のようなそれは、波にも左右されない存在らしい。不安定に形を変え、移動を繰り返す中、あるはずのない目がこちらを射抜いたような感覚を覚える。

──こちらを見つけた。

 途端、横殴りに襲う海流の圧迫感が消え、引きちぎられそうだった四肢に穏やかな時間が訪れる。見れば、二人の周囲を薄い膜のようなものが覆っていた。これが自分たちを守ってくれているのだろう。

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