第三十章 暁の帝国
だが、ようやくにして今、視線の存在を知ったのだ。
力の抜けた手から剣が落ち、鈍い音を立てて水溜りの中に落ちる。紅い瞳からは狂気が失われ、代わりに涙が溢れ出ていた。無表情に見つめる顔は涙の存在に戸惑っているのだろうか、それとも──ほっとしているのだろうか。
もう、憎まなくてもいいことに。
「アルフィニオスが見た幻想を見せるよ」
アスは剣を収め、ヘイルソンの向こうに見える水面を見た。暗い海の所々に白波が立っている。
『器』の構成物以外のものが入り込めば、何を呼び起こすのかわからないが、アスにはこれで良いという確信があった。
──アルフィニオスが、私に希望を見たのなら。
左腕を覆う手袋を外し、ヘイルソンの手を取る。崖の淵に立って海を臨むと、過去には憎悪を以て見た暗い水面が、今は暖かな懐に見えた。
おかえり、と言っているのか、それともさよなら、と言っているのか。
どちらでもいいか、と苦笑して僅かに後ろを振り返る。雨の降りしきる道は色彩を失い、最後に見る風景にしては何とも物寂しい。だが、ここが全ての始まりの場所であることを思えば、最後を飾るに相応しいだろう。
迷いを断ち切るように視線をヘイルソンへやり、大きな背中に手を回す。
「……まだ」
低い声が頭上からふりかかる。アスは思わずヘイルソンを見上げた。
「まだ、この足は動くだろうか」
見れば、顔の筋肉一つ動かさなかったヘイルソンの表情に、穏やかなものが浮かんでいた。
つられてアスも微笑み、頷く。
「私も一緒に行くよ。……途中までだけどね」
ふ、と笑ったヘイルソンと共に海を臨み、二人は崖を蹴った。
遠くから見れば、暗い風景を白と小さな橙色の色彩が縦断しただけに見えるだろう。
そして、その数秒後、やはり小さな金色の色彩が、同じ道筋を縦断して暗い海に飛び込んでいく。
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