第十三章 幾多の夜 一つの朝



「いいの」

 珍しく優しさを含んだ物言いに、ジルはきっぱりと答えた。その優しさが、息子たちが飛び込もうとしている世界の巨大さと危険さを示唆しているのもわかる。だが、それが彼らに太刀打ち出来るのかどうかまではわからない。まだ、それらは未知数の中にある。

 だから、ジルはその場に立ったままでいることにした。今、急いだところで間に合うわけがない。寝室にあるはずのヴァークとサークの荷物がないことは、もうわかっていた。


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「もう少しいたかったか」

 アスは頭を横に振る。

「そうか」

 場をもたせるためなのか、常にも増してカリーニンはアスに声をかけていた。決して自分を見せまいと固く心を閉ざしていた今までならば、その声にも苛立ちを覚えたろうが、今はそんなことはない。ないからこそ、カリーニンが敏感にアスの変化を感じ取って、気を使っているであろうことがわかる。

「お前の左腕な」

 カリーニンの大股に追いつくようにして小走りに歩くアスを振り返らず、低い声が頭上に降る。耳が次に繰り出されるであろう言葉を待つが、カリーニンの顔は見れなかった。左腕のことをカリーニンは知っている。恐らくはその当人よりも客観的にアスの左腕に起きた「異常」を諭してくれることだろう。それは得体の知れない不安を形にする助けにはなるだろうが、アスの不安を確実なものにする作業でもあった。

──神子なんかじゃない。

 今まで言い張ってきたことの根源が揺らぐ。その象徴が左腕の刻印だとすれば、自分に否定出来る材料は全くなくなってしまったということだ。否定し続けるには、あまりにも情報が足りない。

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